苦難のあらしを乗り切る
苦悩の中の主
「逆風のために波に悩まされていた」弟子たちのところに、主が来てくださった。
マタイの共同体が迫害の嵐に見舞われていたので、どうしても主の助けが必要だった。
私たちも苦悩の最中に主にお会いできるのだろうか。信仰が薄ければ苦しみや恐ろしさのために、祈るための心の落ち着きすら失ってしまい、慌てふためいてしまう。
なぜ弟子たちは主を見て「幽霊だ」と恐怖の叫び声を上げたのか。主から見放されてしまったように思える時にこそ、実は主がもっとも身近におられるこおとに気づかない私たちの姿ではないか。
どうしたら不安のまっただ中で主にお会いできるのか。
「おまえたちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ30:15)
この言葉を信じて実践するしかない。
恐れることはない
「安心しなさい。私だ。恐れることはない」
このお言葉にどれほど力づけられることか。がんの末期症状の中で、死に近づく恐怖を乗り越える力を主からいただいておられた方を目の当たりにした。四十歳半ばで夫とお子さん二人を残して亡くなられたその方は、容体の悪化を幾度も秘跡の力によって克服することができた。
「私だ」との主の叫びは神であることの旧約的表現であるが、主にお会いすることこそが、神ご自身にお会いすることなのだ。主が共にいてくださるなら、どんな苦しみをも耐え抜くことができる。
主よ、あなたでしたら
ペトロも主のお言葉に対する信頼は持っていた。だから自分をも水の上を歩かせることがおできになると思ったのだ。主のお言葉にすべてをかけ、ひたすら主に向かって進んだように、不可能を可能にする奇跡的体験は私たちに与えられる恵みではないか。医学的に宣告された時期を越えて、見事に持ち直し半年以上も生き延びる力をいただいたその方は、きっと主に助けていただいたのだと、いまあらためて確認できる。
あなたは神の子です
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱られながら私たちの信仰は強められていくのではないか。
主のお言葉だけでなく、主ご自身からも目を逸らし苦しみに目を奪われてしまう時、私たちは沈んでしまう。そのような場合でも主は力強い助けを必ずくださる。主は手を伸ばして落ち込んでいく私たちを、しっかりと捕まえてくださる。
信仰の歩みは疑いに陥りながらも、またあらためて信仰告白をし、再出発することの繰り返しではないか。
主との出会いが確かなものとなるためにも、苦難のあらしを乗り越える体験が必要なのではなかろうか。
※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。