年間第18主日・A年(1996.7.28)【マタイ14:13-21】

裂かれるパン・イエス

深くあわれむ

「大勢の群衆を見て深くあわれみ、その中の病人を癒やされた」

 イエスを行動に駆り立てるのはあわれみである。それは内蔵で感じるような強烈な思いなので、かならず結果を生み出す。この神のあわれみの実現こそが、神の国の到来の最たるしるしなのだ。だからイエスは助けを一番必要としていた病人をまず癒やされた。

 弟子たちは時間と場所を気にして、群衆を解散させ、おのおのが食べ物を買うことを提案する。イエスがなさろうとしておられたことを分かっていなかったからだ。そればかりかイエスの業に参加させていただけるとは全く考えていなかった。私たちも弟子たちと同じなのではないか。

 

自分たちにもわかる

「行かせることはない。あなた方が彼らに食べる物を与えなさい」

 イエスから離れた別のところには真の解決はない。ましてお金や文明の利器に頼るのでもない。肝心なのは、お互いが何をいま必要としているかに気づき、かかわることである。

 イエスがくださったパンは、世の終わりまでいつも私たちと共にいてくださり、お互いが相手のために自分を与えていける力をいただくためではないか。

 大切なのはモノの増加ではなく、「ここにはパン5つと魚2匹しかありません」としか言いようのない、自分自身ができるわずかなことを、お互いが分かち合うことなのだ。

 

パンをさく

「賛美の祈りを唱え、パンをさいて弟子たちにお渡しになった」

 分かち合いには、かならず神の祝福によって、神のいのちが吹き込まれるはずだ。

 難民キャンプのこどもたちの悲惨なテレビを見ていた三歳の幼子は、胸が裂ける思いがしたのだろう。思わず食べかけのおやつを、テレビに映るこどもたちに「これを食べなさいよ」と差し出した。それを見たおじいさんは感動し、自分の老後の蓄え壱千万を匿名で「孫の心より」と添え書きして寄付した。この二人はまさにイエスのパンを食べたのではないか。

 私たちがミサでいただくいのちのパン・イエスは信仰のいのちの糧である。

 この糧によって無関心であった世界の現実に目を開くだけでなく、苦しみ、悲しみ、困難にある人たちに対して心を裂き、愛の分かち合いの輪を広げていく力をいただくのである。

「弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した」

 イエスがくださるパンは、世界中の人々が幸せになるために自分自身をささげ、一致と平和のために尽くす糧なのだ。パンは裂かなければ、皆の空腹を満たすことができない。

 自分中心の心を裂くならば、イエスが入り込んでくださり、お互いを結び合わせてくださる。そのためにパンをいただく。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。