主は生きておられる
目がさえぎられる
復活の主にお会いする体験には、神ご自身の介入があるのではないか。
「二人の目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」
このことが、もしイエスであることに気づかないように神によって妨げられていたという意味なら、いったい神の意図は何か。
まず自分がどの次元で物事をとらえているのかが、暴露される。
「この方は神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。・・・あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」
つまりローマ帝国の支配からの解放を期待していたのにかなえられなかったというのが、彼らの本音だったのではないか。
しかも「イエスは生きておられる」との婦人たちの証言をも信じていないので、遺体のないことで動転してがっかりしていたのだろう。
不信仰の原因
「物分かりが悪く、心が鈍い」とのお叱りは、私たちに対しても当てはまるのではないか。
「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでゃキリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心をひかれないようにしなさい」(コロサイ3:1-2)
まさに、日々回心して神に立ち帰り、神を中心とした生き方を実践しなければ、知らず知らずのうちにこの世的な価値観や考え方に流されてしまうのではないか。
ヨハネの忠告に常に耳を傾けていなければならない。
「世も世にあるものも愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし神の御心を行う人は永遠に行き続けます」(1ヨハネ2:15-17)
いのちのことば
「聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。・・・『聖書を説明してくださった時、わたしたちの心は燃えていたではないか』」
復活の主にお会いできたのは、み言葉によって再教育をしていただいたからだ。しかも聖書の一部分ではなく系統だてて全体を通してあらためて解き明かしていただく必要があったのだ。
もし復活させられたイエスのまだお会いできないでいるとすれば、最大の原因はしっかりみ言葉を食べていないからではないか。
「あなたのみ言葉が見いだされたとき、私はそれをむさぼり食べました。あなたのみ言葉は、私のものとなり、私の心は喜び踊りました」(エレミヤ15:16)
復活の主と共に生きる人生こそは、この上もない喜びなのだ。
※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。