復活節第4主日・A年(1996.4.28)【ヨハネ10:1-10】

命を豊かに受けるために

 イエスの声を聞く

 羊が自分の羊飼いの声を聞き分けるように、私たちも良い羊飼いであるイエスの声を聞けるのだろうか。

「羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、他の者には決してついていかず、逃げ去る」

 イエスの声を聞き分けるために、まずイエスの言葉をよく聞いて知っておく必要がある。特に福音書に伝えられている主のお言葉ひとつひとつを十分に理解することが大前提である。それだけでなく日々の生活の中で直接お言葉をいただけるはずだ。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」

(ローマ10:17)

 もし主に聞き従わないなら、結局ほかのだれかの言うことに従ってしまうのではないか。

 世間の常識に従うのか、この世的な価値観で判断してしまうのか、有名人の言うことか、或いはマスコミの情報か。正直に自分を糾明すべきだ。

 

命の門

「私は門である。私を通って入る者は救われる」

命に至る道は、主の示す生き方にほかならない。にもかかわらず「命を得るために、私のところへ来ようとしない」(ヨハネ5:40)と嘆かれるイエスの忠告に耳を傾けるべきだ。なぜ命の言葉をいただかないで、ほかのものを当てにするのか。

「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)

 このように絶えず招いておられるのに、どうして主以外のものに頼るのか。ちょうどサマリアの女性のように、まず自分の魂の飢えと渇きに気づかせていただくことだ。(ヨハネ4:7-26)

 そのために主は私たちを試練に遭遇させ、自分の惨めさと弱さを思い知らせてくださる。だから苦しみを通してこそ、主の命のお言葉の素晴らしさに初めて気づかせてもらえるのではないか。

「主は羊飼い、私には何も欠けることがない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる」(詩編23:1-3)

 

満ちあふれる

 日々主と共に生きることの素晴らしさを、どこまで実感しているだろうか。

「この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」(ヨハネ1:16)

 しかも、この恵みは特に主の命のお言葉を十分にいただくことにほかならない。

「あなたのみ言葉が見いだされたとき、私はそれをむさぼり食べました。あなたのみ言葉は、私のものとなり、私の心は喜び躍りました」(エレミア15:16)

 しかし、このように豊かにいただく命の恵みは、ただ自分の満足と慰めのためではない。

 恵みは分かち合わなければ、かならず萎(しぼ)んでしまう。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。