年間第15主日・A年(1996.7.7)【マタイ13;1-23】

豊かな実を結ぶ

 聞いているから幸い

 信仰の恵みのよって、神のみ業の神秘を悟らせていただける。

「あなた方の目は見ているから幸いだ」

 多くの預言者や正しい人たちですら、見ること聞くことができなかったものを、見たり聞いたりできる幸せは何か。

 まずひとり子をくださった父なる神の愛を見せていただいたから。(1ヨハネ4:9参照)さらに、ご自身が御子を見せてくださり、御父のお言葉を思い起こし、真理を悟らせていただくために聖霊が与えられたからである。(ヨハネ14:26.16:13参照)

 この幸せをどこまで実感しているだろうか。

 

心の鈍さとかたくなさ

 み言葉を受け止める側に問題がある。イエスもそして弟子たちも宣教の難しさと危険を体験なさっただろう。初代教会も同じような試練に遭遇したと思われる。

 み言葉の聞き手にある「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」という問題はいつの時代にもある。だからパウロは宣教者を励ましてくれる。

「み言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時がきます。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」(2テモテ4:2-5)

 

み言葉の受け止め方

 み言葉は種のようにまかれた場所、つまり聞き手によって全く違う結果になる。み言葉は決して自動的に同じ実りをもたらすものではない。み言葉自体には語られたことを実現する力があるが(イザヤ5:10-11参照)聞く側の態度次第でそれぞれ実りが異なるのである。

 だから、み言葉を表面的に聞くだけでよく悟らなければ、すぐにみ言葉に反する考えや価値観が入り込んでしまい、結局みことばがなくなってしまう。道ばたに蒔かれた種が鳥に食べられてしまうように。石土に蒔かれた種が芽を出しても根づかずすぐ枯れてしまうように。み言葉が自分の中に根づかない。つまり自分の生き方がキリストに根ざしていないので(コロサイ2:7参照)艱難(かんなん)や、迫害に遭遇するとつまづくのである。

 いばらに覆われてしまい実を食べない種のように、せっかくいただいたみ言葉を思い煩いや富の誘惑が覆いふさぐ危険がある。しかし「立派な善い心でみ言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」(ルカ8:15)も大勢いる。だから、世の中の終わりまで信頼と勇気を持って主と共にみ言葉を宣べ伝えることができるのである。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。