主の昇天(復活節第7週)・A年(1996.5.19)【マタイ28:16-20】

なぜ天を見上げているのか

 

 疑いと不信仰

 イエスにお会いし、ひれ伏して拝みながらも、弟子たちの心には疑いがなくならなかった。だから主は彼らの「不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」(マルコ16:14)

 神に対する不信仰だけでなく、お互いに対する信頼の欠如とかたくなさも残っていた。

 このような問題を、私たちも抱えているのではないか。自分の中にまだある信仰における不確かさ、共同体を弱めてしまうお互いに対する不信感などを拭いきれないのはなぜか。私たちのこの現実に対して、主が断言なさっておられるではないか。

「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(2コリント12-9)

 

主の機能にあずかる

  心許ない私たちであるからなおさらのこと、主が近づいてくださるのだ。私たちの弱さの中で、主の機能がまさにその力を発揮されるのである。私たちが力があり優れているから、神に選ばれたのではない。神の救いのみ業においては、この世的なまた世間的な価値基準はまったく使われない。イスラエルの民が選ばれたわけをみても、それはよくわかる。

「主が心ひかれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちがどの民よりよ数が多かったからではない。あなたたちはどの民より貧弱であった」(申命記7:7)

  だからパウロは主張する。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見さげられている者を選ばれたのです。それはだれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(1コリント1:27-29)

 

派遣を生きる

「私は天と地のいっさいの機能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい」この至上命令は、実に私たちも与えられているのだ。

 主の昇天の素晴らしい出来事は、この地上に残された私たちが、聖霊によって主のみ業にあずからせていただくためでもある。主が再び栄光に包まれて来られるまで、全世界に出かけて行って、主の福音を宣べ伝えなければならないのだ。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなくユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、私の証人となる」(使徒言行録1:8)

  主の死と復活をあかしすることが、私たちの一回限りの人生の目的ではないか。主からの使命を忠実に生きるとき、主は世の終わりまで、いつも私たちと共に働いて下さるのだ。

 

 ※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。