2020-01-01から1年間の記事一覧

年間第15主日・A年(1996.7.7)【マタイ13;1-23】

豊かな実を結ぶ 聞いているから幸い 信仰の恵みのよって、神のみ業の神秘を悟らせていただける。 「あなた方の目は見ているから幸いだ」 多くの預言者や正しい人たちですら、見ること聞くことができなかったものを、見たり聞いたりできる幸せは何か。 まずひ…

年間第14主日・A年(1996.6.30)【マタイ11:25-30】

へりくだる者の幸せ 主が喜び賛美する イエスの御父を賛美する祈りは、救いの神秘を教えてくださる。同時に主が何を喜ばれるかをも示していただける。(ルカ10:21参照) 神のみ業は幼子のように自分を低くする者に示されることを、主はほめたたえておられる…

年間第13主日・A年(1996.6.23)【マタイ10:37-42】

主に選ばれた私たち ふさわしい弟子となる 最初の弟子たちは自分たちの方から主の弟子にしてくださいと名乗らなかった。 主が彼らをご覧になって、わたしについて来なさいと一方的にお選びになったのだ。(マルコ1:16-20参照)だからイエスははっきりと言わ…

年間第12主日・A年(1996.6.16)【マタイ10:26-33】

恐れずにみ言葉を語れ 迫害を恐れるな マタイの共同体もすでにユダヤ人から迫害を受けていたので「恐れてはならない」という主の励ましを必要としていたのだろう。神の業はかならず明らかにされていくので、たとえ神に逆らう勢力のさまざまな反対や妨害があ…

年間第11主日・A年(1996.6.9)【マタイ9:36-10.8】

収穫は多いが働き手が少ない あわれみの連帯 「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深くあわれまれた」旧約から人は羊にたとえられてきたが、神が羊飼いとして養い守り育ててくださるのだ(エゼキエル34:11-22参照) 今…

キリストの聖体・A年(1996.6.9)【ヨハネ6:51-58】

天からくだってきた生きたパン み言葉を食べる 「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)ことを学んだのが、40年間の荒野でも信仰の旅だった。だから、み言葉は聴くだけでなく、しっかり食べて自分の血とし肉としなければならない。 …

三位一体の主日(年間第10週)・A年(1996.6.2)

神の愛は世界を救う 【ヨハネ3:16-18】 愛するひとり子 愛するひとり子イサクを捧げるように、神はアブラハムに要求された。(創世記22:1-14参照) その同じ神が、私たちを救うために、尊いひとり子イエスをくださった。これほどまでの神の愛を、実感とし…

聖霊降臨の主日・A年(1996.5.26)【ヨハネ20:19-23】

聖霊を受けなさい 多様性の一致 「罪のゆるしを得させるための悔い改めの洗礼」(マルコ20:19-23)が、洗礼者ヨハネから授けられていた。しかし彼よりはるかに優れたお方イエスが授けてくださるのは、聖霊と火による洗礼である(ルカ3:16)すでに旧約で預…

主の昇天(復活節第7週)・A年(1996.5.19)【マタイ28:16-20】

なぜ天を見上げているのか 疑いと不信仰 イエスにお会いし、ひれ伏して拝みながらも、弟子たちの心には疑いがなくならなかった。だから主は彼らの「不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからであ…

復活節第6主日・A年(1996.5.12)【ヨハネ14:15-21】

別れは会うの始め 一緒にいる 真の出会いには別れはないはずだ。 主との出会いが本物ならば、別離がもう一つの出会いを生み出すのだ。 「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」 弟子たちと別れるに際して、主は「世に…

復活節第5主日・A年(1996.5.5)【ヨハネ14:1-12】

御父をお示しください 私は道である 「私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」 父なる神に至る唯一の道が、イエス・キリストであると頭で理解するだけでは足りない。日々主に忠実に従っていなければならない。主のお言葉に聞き従うならば、…

復活節第4主日・A年(1996.4.28)【ヨハネ10:1-10】

命を豊かに受けるために イエスの声を聞く 羊が自分の羊飼いの声を聞き分けるように、私たちも良い羊飼いであるイエスの声を聞けるのだろうか。 「羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、他の者には決してついていかず、逃げ去る」 イエスの声を…

復活節第3主日・A年(1996.4.21)ルカ24:13.35】

主は生きておられる 目がさえぎられる 復活の主にお会いする体験には、神ご自身の介入があるのではないか。 「二人の目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」 このことが、もしイエスであることに気づかないように神によって妨げられていたとい…

復活節第2主日・A年(1996.4.14)【ヨハネ20:19-31】

シャローム(平和)派遣、ゆるし 恐れからの解放 「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にかぎをかけていた」 きっと心の扉をもかたく閉ざしていたと思われる弟子たちが、復活の主にお会いできた。 復活の恵みは、人の目を気にしたり、世間や…

復活の主日・A年(1996.4.7)【ヨハネ20:1-9】

見て、信じだ 空(から)の墓から 弟子たちが見たのは、イエスのご遺体がない空(から)の墓の亜麻布だけだったので、大変動揺していた(ルカ24:12参照) つまり肉眼で見ることの次元にまだとどまっていたのだ。復活のイエスにお会いするためには、どうして…

受難の主日(枝の主日)・A年(1996.3.31)

十字架の死に至るまで従順でした 無抵抗の従順(マタイ27:11-54) 主の受難のドラマは、あらゆる侮辱、ののしりやあざけり、しかも暴力に対して一切抵抗しない姿で展開される。 既に第2イザヤも「私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまか…

四旬節第4主日・A年(1996.3.17)【ヨハネ9:1-41】  

目が見えるようになる 神の業が現れる 古今東西を問わず、因果応報の考えはまだ根強く残っている。特に生まれながらの障がいなどは、罪の結果と思われている。 しかし主はまったく新しい視点でとらえることをはっきりと教えてくださる。 「本人が罪を犯した…

四旬節第3主日・A年(1996.3.10)【ヨハネ4:5-42】

主よ。渇くことのないように、その水をください 魂の渇きに気づく このサマリアの女は、人目をはばかって、だれも来ない真っ昼間に水を汲みに来なければならなかった。しかしイエスがあたかも待っていたかのように、ひとりでその井戸のそばに座っておられた…

四旬節第2主日・A年(1996.3.3)【マタイ17:1-9】

これは私の愛する子 彼に聞け 復活への道を示す 「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」 この主のご変容の背景に、まずシナイ山でのモーセの神との出会いが考えられる。 「山から下った時、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放って…

四旬節第1主日・A年(1996.2.25)【マタイ4:1-11】

誘惑に打ち勝つ 自分の能力を示す 四旬節に入り、主の歩まれた試練の道を、確認する恵みの時をいただく。 悪霊の導きと悪霊の誘惑は、同時進行する。誘惑を受けても聖霊の導きによってそれに打ち勝つならば、信仰はかえって鍛えられる。つまり誘惑が試練に変…

四旬節第5主日・A年(1996.2.24)【ヨハネ11:1-45】

ラザロ、出て来なさい 死んでも生きる イエスの公生活を締めくくる重要な神のみ業(わざ)のしるしが、ラザロの復活である。 しかしこの奇跡がユダヤ人にイエスを殺す決断をさせてしまった。(ヨハネ11:45以下) 「わたしを信じる者は、死んでも生きる」 ま…

年間第7主日・A年(1996.2.18)【マタイ5:38-48】

天の父の完全さによって変えられる 神の愛による変革 「悪人に手向かってはならない」というご命令は、悪を力、特に武力によって征伐しなければならない、という原理を全く否定しておられる。ごく日常的な次元でもやられたらやり返すべきだと思い込んでいる…

年間第6主日・A年(1996.2.11)【マタイ5:17-37】

アーメン・わたしはあなたたちに言う 新しい生き方を示す モーセを通して与えられた掟(おきて)は、長い伝統の中でさまざまな規則が加えられ、人々は掟の本来の意味を見失っていたようである。だからイエスは神の掟の真意を知らせるだけでなく、全く新しい…

年間第5主日・A年(1996.2.4)【マタイ5:13-16】

あなたがたは地の塩 世の光である 地の塩である 自分の信仰が、この世にとってどんな意味と価値をもっているのかを、主がはっきりと教えてくださる。まず、信仰は自分のためだけではない。 「地の塩である」とは、信仰の根本的なあり方なので、自分の方から…

年間第4主日・A年(1996.1.28)【マタイ5:1-12】

貧しい人は幸いである 神がくださる幸い イエスは全く新しい幸せを示された。普通考えられている物質的豊かさでもなければ、この世的な成功や生活の安定でもなければ、まして自己満足でもない。 実の幸せは、神を信頼する者に神がくださる祝福なのだ。だから…

年間第3主日・A年(1996.1.21)【マタイ4:12-23】

神の国が近づいた 回心せよ 福音の光が輝く 「死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」 このイザヤの預言は、イエスの宣教の地ガリラヤで実現した。神の愛の支配(神の国)が始まったという喜ばしい知らせは、死、飢餓、弾圧、差別などに苦しむ人々に告げられ…

年間第2主日・A年(1996.1.14)【ヨハネ1:29-34】

見よ、世の罪を取り除く神の小羊 イエスをあかしする 洗礼者ヨハネが自分の弟子に、イエスをあかしした。(ヨハネ1:35-37) あかしとは自分をお手本として示すのではなく、イエスを指し示すことではないか。ギリシア語では「あかし人」という言葉は「殉教者…

主の公言・A年(1996.1.6)【マタイ2:1-12】

メシアの星に導かれて 主を探し求める 今年も、主の導きに日々従う一年にしたい。そのために東方の学者たちのように絶えず主を探し求めなければならない。今年が本当に良い年になるのは、主の示す道を忠実に歩むからである。 「王としてお生まれになった方は…

降誕節第3主日・A年(1995.12.17)【マタイ11:2-11】

来るべき方は あなた だれを迎えるのか 「ほかの方を待たなければなりませんか」 イエスがどのようなお方なのか、洗礼者ヨハネもまだわかっていなかったのだろうか。イエスが何をなさっているのかを、しっかり見なければならない。 「見えない人が見えるよう…

待降節第1主日・A年(1995.12.3)

『覚めた目で今日を見る』(マタイ24:37-44) 毎日主を迎える 待降節は何よりも、自分がどのような信仰の姿勢で生活しているのかを、真剣に見直す時である。 特に主ご自身に対しての態度を振り返る必要がある。典礼は、主の来臨に対する心構えを教えてくれるが…