待降節第3主日・C年(21.12.12)

「わたしたちはどうすればよいのですか」

お前はもはや災いを恐れることはない(ゼファニア3.15c参照)

 

 いつものように、今日の聖書朗読箇所を、順にふり返ってみましょう。

 まず、第一朗読ですが、旧約にある預言書ゼファニア書の3章からの抜粋であります。

 ちなみに、預言者ゼファニアですが、恐らくユダ王国のヨシヤ王(640-609BC)の時代にエルサレムで活躍したと考えられます。ですから、時代背景は、アッシリアがメソポタミアで強大な勢力を誇った時代であります。したがって、ユダ王国は、シリアの支配下にあって莫大な貢物に苦しみ、国内ではすでに異教の影響がイスラエルの民を覆った時代と言えましょう。

 ですから、この書の特色は、民の無気力と不信仰への警告がその教えの中心になっていますが、今日の箇所では、エルサレムの回復と散らされた民のエルサレムへの帰還(きかん)と喜びが、次のように預言されています。

 「娘シオンよ、喜べ。

 イスラエルよ、歓呼(かんこ)の声をあげよ。

 娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。

 ・・・

 イスラエルの王なる神はお前の中におられる。

 お前はもはや、災いを恐れることはない。

 その日、人々はエルサレムに向かって言う。

 『シオンよ、恐れるな

 力なく手を垂れるな。

 お前の主なる神はお前のただ中におられ

 勇士であって勝利を与える。」と。

 ここで、「娘シオン」「エルサレム」「娘エルサレム」と三回くりかえされていますが、実は、この章の一節で、「ああ、反抗し、汚れた、暴力の町よ」という神の三つの嘆きに対応しているのではないでしょうか。

 また、ここで言われている「心」ですが、知性の座でもあり、人格全体の意味と言えましょう。

 

主において喜びなさい(フィリピ4.4参照)

   ちなみに、今日の第二朗読は、入祭唱にもなっていますので、ミサをラテン語でささげていた時代には、「よろこべ」ラテン語では「gaudeteガウデーテ」のミサと名づけ、ばら色の祭服をまとう習慣がありました。

 今日の箇所は、フィリピの教会への手紙4章からの抜粋ですが、使徒パウロの第二宣教旅行に際して、このフィリピ教会を設立していますが、この手紙は、45年の後半ごろにエフェソから書き送ったと考えられます。

 今日の箇所では、主の再臨(さいりん)が近いので喜びなさいと、次のように強調しています。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。・・・主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのは、やめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を越える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」と。

 ですから、わたしたちもコロナ禍の最中(さなか)にあっても、「思い煩うのはやめて、主において喜ぶ」ことが、できるのではないでしょうか。

 

ヨハネは民衆に福音を告げ知らせた(ルカ3.18参照)

  最後に今日に福音ですが、ルカによる福音書3章からの抜粋であります。

 ちなみに、福音記者ルカは、待降節の第二と第三の主日に、洗礼者ヨハネを登場させ、メシアの到来とその準備は神の意図(いと)することであると強調しています。

 しかも、まず洗礼者ヨハネ自身が、救い主イエスをお迎えできるための宣教活動を開始したことを、伝えております。

  ですから、今日の場面では、ヨハネの悔い改めの説教を聞いた群衆が、真剣にヨハネに次のように問いかけるところから始まります。

「その時、群衆はヨハネに『わたしたちはどうすればよいのですか』と尋ねた。ヨハネは、『下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ』と答えた。徴税人(ちょうぜいにん)も洗礼を受けるために来て、『先生、わたしたちはどうすればよいのですか』と言った。ヨハネは、『規定以上のものは取り立てるな』と言った。兵士も、『このわたしたちはどうすればよいのですか』と尋ねた。ヨハネは、『だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ』と言った。」と。

   ちなみに、ルカはその使徒言行録においても、ペトロの最初の説教を聞いた群衆が、「これを聞いて強く心打たれ、ペトロとほかの使徒たちに言った、『兄弟の皆さん、わたしたちはどうすればよいのでしょう。』」(使徒2.37参照)と。

   ですから、洗礼者ヨハネが、授けていた洗礼は、「罪の赦しへと導く悔い改めの洗礼」(同上3.3参照)と言われていますが、個人的な悔い改めの次元にとどまらない、まさに社会の不正と不平等を改革するまでに及ぶ回心と言えましょう。それは、既にマリアがエリザベトを訪問したときにささげた賛歌が目指している社会改革ではないでしょうか。 マリアは祈ります。

「権力をふるう者をその座から引き下ろし、身分の低い者を引き上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(同上1.52参照)と。

   そこで、群衆は、「洗礼者ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」のであります。

「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物(はきもの)のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。』」と。

   ここで言われている「聖霊と火」ですが、「風と火」とも訳すことが出来ます。つまり「風と火」は、聖霊すなわち神の力強い臨在のシンボル(使徒2.1-4参照)であり、また裁きのシンボルでもあります。

   このように、洗礼者ヨハネの先駆者としての使命が、イエスがだれであるかを人々に告げ知らせることにあったように、わたしたちも特にこの待降節に当たって、メシアであるイエスを、人々に知らせることに励むべきではないでしょうか。

    ちなみに、教皇フランシスコは、その使徒的勧告『福音の喜び』で、次のように励ましておられます。

「洗礼を受けたすべての人には例外なく、福音宣教に駆り立てる聖霊の神聖な力が働いています。神の民が聖なる者であるのは、『信仰において』間違うことのない油を注がれているからです。・・・洗礼を受け、神の民のすべてのメンバーは、宣教する弟子になりました。」(同上119-120項参照)と。

 

 

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