待降節第 3 主日・C年(2015.12.13)

「わたしたちは何をすればよいのですか」

 いつくしみの特別聖年の開年

 去る 4 月 11 日・復活節第 2 主日、すなわち神のいつくしみの主日の前の晩、教皇フランシスコは、「大回勅・いつくしみの特別聖年」を公布なさいました。その小冊子が、各教会に届けられましたので、そのさわりの個所をここで引用いたします。引用する前に、「聖年」について簡単に説明させてください。

 それは一年間の間バチカンに巡礼し、教皇から特別免償を受けることができたことに由来します。最初の聖年は、ボニファティウス 8 世(1294-1303)によって制定されました。ちなみに、聖ペトロ大聖堂の聖年の扉が聖年の開始と終了に宣言されます。ですから、今回は聖年の開始の 12 月 8 日の次の日曜日すなわち本日、ローマの司教座聖堂であるサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の扉が教皇自らによって荘厳に開かれました。それに続き、ローマの他のすべてのバジリカの聖なる扉も開かれます。

 ちなみに十和田教会が、第 2 区の「巡礼教会」に指定されましたので、これからの一年間に訪問する方々に、聖年の扉として玄関の戸を開いてもらいます。それでは、前置きが少し長くなりましたが、教皇の「大勅書・イエス・キリスト、父の慈しみのみ顔」のさわりの個所を朗読します。

「いつくしみー、それは三位一体の神秘を明らかにすることばです。・・・いつくしみー、それはわたしたちの罪という限界にもかかわらず、いつも愛されている、という希望を心にもたらすもので、神と人が一つになる道です。

 わたしたちのまなざしを、もっと真剣にいつくしみへと向けるよう招かれるときでもあります。それは、わたしたちが、御父の振舞ふるまいを示すしるしとなるためです。これこそ、わたしがこのいつくしみの特別聖年を公布した理由です。この特別聖年は、信者のあかしがより力強く、より効果的になるために、教会にとってふさわしい時となるでしょう。」

 

わたしたちはどうすればよいのですか

 ところで、今日の福音ですが、まさに大聖年の開年にふさわしい朗読個所が選ばれていると言えましょう。なぜなら、今日の個所の前には、ヨハネらしい次のような極めて厳しい回心への叫びが響いているからです。

「そこで、ヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に向かって言った。

『 蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子らを造り出すことがおできになる。斧は既に根元に置かれている。よい実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(ルカ 3.7-9)

 真の悔い改めは、必ず豊かな実りをもたらすと言うのです。イエスが、最後の晩餐の席上、ぶどうの木とその枝のイメージで、信仰は必ず実を結ぶと、次のように断言なさっておられます。

「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話したことばによって、あなたがたは既に清くなっている・・わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かな実を結ぶ。・・・わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて焼かれてしまう。・・・あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名のよって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなた方を任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ 15.2-17)

 

回心の恵みのときである四旬節を相応しく

 生きるとは、まさに愛の実践によって、豊かな実を結ぶことにほかなりません。

 したがって、この愛の実践を妨げている自分中心と利己主義の殻から脱皮し、特に小さき兄弟に、また弱き兄弟たちに徹底して関わって行くことではないでしょうか。世界中のいたるところで、戦争や争いにより、特に大勢の子どもや女性たちが犠牲になっている今日、特に平和を身近なところから造り出していくことではないではないでしょうか。イエスは、今も、叫び続けておられます。

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪う者には下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。」(ルカ 6.27-30)

 先月の 29 日と 30 日、中央アフリカを始めて訪問なさった教皇フランシスコは、大群衆に向かって次のように叫ばれました。

「この世界で武器を不正に使用している全ての人に、わたしはこう訴えます。このような死の道具を今すぐ捨ててください!その変わりに正義で、誠に平和を保障することができる愛といつくしみで、自らの身を守ってください。」と。

 公共放送のNHKでも、毎年、恒例に「歳末助け合い」のキャンペーンを呼びかけています。

 一方、自民党政権は、集団的自衛権を閣議決定し、国民の反対を無視し、とうとう去る9月 19 日未明、参議院本会議で多数決の暴力で、成立させました。まさに戦後の防衛政策が戦争に向けて転換した今日、「幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子と呼ばれるであろうから。」(マタイ 5.9)とのイエスの呼びかけに、具体的な行動によって応えなければなりません。

 今なお、原子力緊急事態が継続しいているにも関わらす、原発再稼働を推し進めると云う恐ろしい原子力政策が続いています。原子力政策と同じ根っこにある核兵器開発政策の一環として行われたアメリカの水爆実験を非難する勇気は、日本にもかつては確かにありました。

 たとえば、東京の杉並区では、なんと一人の主婦が水爆禁止のための署名運動を、1955 年に始めたのであります。実は、この運動は早速全国に広がり、翌年には、日本の人口のほぼ四分の一にあたる 3200 万人もの驚異的な数の署名が集まったのであります。

 言葉でいくら非難し批判しても、時の間違った流れは全く変わりません。

 また、沈黙を守ることは、結局賛成したことと同じ結果になります。

 ヨハネの叫びに応えて、群集は、「わたしたちはどうすればよいのですか」と真剣にそのスタンスを告白しました。この待降節に当たって私たち一人ひとり、また共同体ぐるみで、「わたしたちはどうすればよいのですか」と聖霊に向かって問い掛けようではありませんか。