待降節第 4 主日・C年(2015.12.20)

「聖霊に満たされて」

 母親同士

 ルカ福音が伝える今日の場面は、いみじくも二人の母親同士の聖霊に満たされたエピソードが、ルカ特有の手法で描かれております。

 実は、この二人の母親が、出会うほんの数日前、ナザレの村娘マリアのもとに大天使ガブリエルが遣わされ、彼女の人生を決定づける重大な告知があったのであります。

「『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもっ

て男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。・・・』マリアは天使に言った。『どうしてそんなことがありえましょう。まだ男を知らぬわたしなのに。』天使は説明した。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類エリザベトも、年をとっているが、男の子を宿している。不妊の女と言われていたのに、もう六か月目になっている。神にできないことは何一つない。』

 マリアは言った。『わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身に成りますように。』そこで、天使は去っていった。」(ルカ 1.30b―38b)

 つまり、マリアにとって信仰を生きるとは、日々、徹底して神に聞き従うことにほかなりません。それはとりもなおさず、御父の御心を生きることになるのであります。すなわち、自分の考え、自分の計画をかなぐり捨てて神のみ旨を生きることなのです。したがって、一回限りの人生は、結果的に神のご計画を全うすることになるのであります。

 とにかく、特別な恵みを戴いたマリアは、その喜びを分かち合うために、早速、親類のエリザベトを、訪問するために急いで山里にあるユダの町に向かったのであります。

 そこで、母親になるという素晴らし恵みを体験した二人が、いとも感動的に出会うのであります。

 

聖霊に満たされて

  そのときの様子を、ルカは次のように簡潔に報告しております。

「マリアの挨拶をエリザベトが、聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリザベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」

  このマリアとエリザベトの再会こそ、まさに大人になったときのイエスとヨハネとの密接な関係を反映していると言えましょう。つまり、洗礼者ヨハネには、イエスの先駆者として皆にイエスを、主メシア、神の子として紹介する大切な使命があるのです。ですから、わたしたちが、イエスが主であることを悟ることができるのは、このヨハネのお蔭にほかなりません。

  しかも、この二人の母親の出会いにおいて、主役を演じるのは聖霊なのであります。ですから、パウロもその手紙の中で次のように念を押しています。

「『聖霊によらなければ、だれも、イエスは主である』とは言えないのです」(一コリント 12.3b)

 したがって、この場面で、エリザベトが、マリアに向かって「わたしの主のお母さまが、わたしのところに来て下さるとは、どういうわけでしょう。」と断言できたのは、まさに聖霊によるのであります。

「体内の子は喜んでおどりました。」のくだりは、正確には、「飛び跳ねた」となりますが、単に胎児が胎内で動いたというようなことではなく、まさに主キリストが、救いの完成の 暁に再び来られることへの大きな喜びを表わす跳躍にほかなりません。

 ここで言われている「聖霊に満たされて」というルカの好む言い回しは、特に重要なことを宣言する時に使われております。それは、わたしたちの内面で起こる聖霊による変化を強調していると言えましょう。

 また、神が具体的にわたしたちの共同体に働き掛ける時の、まさに聖霊の働き方でもあります。例えば、初代教会の最初の殉教者であるステファノの体験においても、全く同じ言い回しが使われております。

「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておれるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った」(使徒言行録 7.55-56)

 しかしながら、多くの場合、この聖霊の働きに気づくとは限りません。なぜなら、イエスが、ニコデモに説明したように、まさに聖霊は人知れず働く行動パターンを持っているからです。

「イエスは、お答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによらなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたがたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。』」(ヨハネ3.5-8)

  ですから、実際に聖霊に満たされ、また導かれて行動したかは、結局、その結果すなわち実りで識別するしかありません。そのことを、パウロは次のように具体的に教えてくれます。

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架つけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに生きているなら、霊の導きに従って前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったりねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ 5.22-26)

 ですから、私たちはミサの奉献文で毎回次のように祈る必要があるのです。

 「御子キリストの御からだと御血によってわたしたちが養われ、その聖霊に満たされて、キリストのうちにあって一つのからだ、一つの心となりますように」(聖霊の奉献文)

最後に、エリザベトのマリアに対する褒め言葉を、確認しましょう。

「主がおっしゃったことは必ず実現すと信じた方は、なんと幸いでしょう。」

待降節を締めくくるにあたって、私たちも日々このマリアと同じ幸せに与かることができるように、共に祈りましょう。