主の公現・C年(2016.1.3)

「人々は皆、黄金と乳香を携えて来る」

みな集いあなたのもとに来る(イザヤ 60.4)

 今日の祭日の由来について少し説明しましょう。

 東方教会では、この祭日は、マタイとルカの福音書に基づいてイエスの誕生と幼児物語が背景となっております。

 一方、西方教会では、わたしたちの祝い方ですが、マタイ福音(2.1-12)が語る東方の占星術の学者たちと公現日を見事に結びつけるのであります。

 当時の占星術の言い伝えによれば、新しい王の誕生を暗示する宇宙の珍しい現象に導かれて、東方の学者たちがエルサレムにやって来てときに、ユダヤの学者たちが聖書を手掛かりにしてイエスの誕生の場所が、ベツレヘムであることを探し当てるのであります。ただこの学者たちが王であったとは、聖書では全く分かりません。

 後に、この伝説が、中世のドイツに伝わったときには、三人の学者たちがなんと聖人の王になり聖遺物までもが運ばれ、今では、ケルンの大聖堂にこの遺物が安置されており、世界中から巡礼者が訪れております。ですから、今日の祭日の意義も、幼子イエスよりも、三人の聖博士に対する信心に移ってしまったようです。

 ですから、この祭日の本来の意義を明確にするために、聖書の朗読箇所を手がかりに今日のメッセージを探し当てて行きましょう。

 第一朗読ですが、第3イザヤからとられています。ちなみに、この第 3 イザヤといわれる 56 章から 66 章までは、紀元前 6 世紀にイスラエルがバビロンの捕囚からやっと解放されたときに与えられた希望と慰めのメッセージと言えましょう。

 ですから、1 節の「起きよ、光を放て」は、捕囚後のユダヤ教団の礼拝から、まさに今日のわたしたちのもとにも達するのであります。また、3 節の「あなたを照らす光」ですが、「主の栄光」あるいは「主」自身と同じ意味に使われています。

 そして、4 節の b の「みな集い、あなたのもとに来る」は、帰国民がシオンつまりエルサレムに上ってくるのは、エルサレム中心の個別的救いではなく、あくまでも捕囚民を帰還させるためなのです。

 さらに加えて財産や家畜をもバビロンから故国へ持ち帰ることにほかなりません。ですから、これら持ち帰った物は、主への贈り物になるのであります。したがって、「みな集い、あなたのもとに来る」

 つまり、飼葉桶に寝かされている幼子イエスこそ、すべての人の救い主であることをすでに暗示しているのであります。

 ですから、今日の祭日の意義の一つには、幼子イエスこそ、すべての人の救い主であることを、広く世界に向けて知らせる使命にほかなりません。

 したがって、もし、実際にわたしたちの教会共同体が、この大切な使命を怠っているならば教会は、地域に対して隠れキリシタンのように閉鎖集団に成り下がってしまうのではないでしょうか。

 とにかく、この三人の博士たちが、はるばる遠い東の国から、生まれたばかりに救い主を拝みに来たという出来事こそ、すべての人々に福音を宣べ伝えるという教会の使命の見事に表わしていると言えましょう。

 50 年前の第二バチカン公会議によって教会の本来の姿を再確認して「異邦人の光である教会」という冒頭の言葉で、『教会憲章』を発布したのであります。

 次に、今日の福音に目を転じてみましょう。実に、マタイだけが伝えている主の公現の出来事ですが、まず、東方からの客人を迎えたときのヘロデ王の取った態度に注目してみましょう。その場面をマタイは、次のように伝えております。

「そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は。どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので拝みに来たのです』

 これを聞いていて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人たちも皆、同様であっ

た。」

  ここで、ヘロデ王が、なぜ、「不安を抱いた。」のかは、だいたい検討がつきます。恐らく彼は、想定外の新しい王の誕生によって、自分の王座が揺るがされるのではないかと大変心配し、早速、聖書に精通していた宗教指導者たちを緊急に招集し、メシアの誕生について問い質したのであります。

  けれども、マタイは続けて、「エルサレムの人々も皆、同様に不安を抱いた。」とコメントしているのはなぜですか。その理由を追及することも必要ではないですが。

 とにかく、当時、羊飼いたちに見られるように、ユダヤの人々は、こぞってメシアの誕生を待ち望んでいたのではないですか。

 ですから、メシアがどこに生まれるかまで、確かに旧約の預言者たちによって知らされていたのです。

「ユダの地、ベツレヘムよ、

 お前はユダの指導者たちの中で

 決していちばん小さいものではない。

 お前から指導者が現れ、

 わたしの民の牧者となるからである。」

  これは、マタイがギリシャ語聖書から、引用した句ですが、とくに「決して小さいものではない。」のくだりは、まさにマタイが、預言者ミカのメイサ預言によって、ベツレヘムが見せかけの小ささにもかかわらず、その町がイスラエルの町々の中で「いちばん小さいもの」ではないと主張しています。けれども、ヘブライ語聖書のほうでは、「あなたはユダの氏族の中で小さき者」とはっきり言い切っているのであります。

 ですから、同じマタイの 25 章 40 節の「これらのわたしの兄弟、しかも最も小さな者の一人にしたことは、わたしにしたのである。」に見事につながるのであります。

 文字通り「最も小さな者」として貧しい家畜小屋の飼葉桶に産み落とされたイエスを、「決していちばんちいさいものではない」と言い換えてしまったところに、わたしたちのメイサの実像を把握するために大きなネックになっているように感じます。

 ですから、第二バチカン公会議で活躍したボローニアの大司教レルカロは、次のように強調しました。

「もしわれわれが福音を貧しい人たちに伝えることを、公会議の多くのデーマの一つとして取り上げるならば、現代の最も真実で切なる要求に応えないであろうし、またすべてのキリスト者のいだく一致への希望にそぐわないであろう。事実、「貧しき教会」は、一つのテーマというよりも、むしろ公会議のテーマそのものである。もしこの公会議の目的が、度々繰り返されたように、教会を福音の真理により密接に適合させ、また現代の諸問題によりよく応えさせるためであるとすれば、この公会議の中心テーマは、まさに貧しい人の教会であるということができる。」

  また、今週もまた、この公会議の精神に基づいてわたしたちの教会共同体を刷新し、その使命を忠実に生きることができるよう共に祈りましょう。