主の洗礼・C年(2016.1.10)  

「聖霊によって新しく生まれさせ 新たに造りかえる洗い」

主の洗礼は、何をもたらすのか

 今日、なぜ主の洗礼を特別に祝うのでしょうか。

 それは、イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネがから受けられた洗礼こそ、イエスがメシアとして人々の前にデビューした最初の出来事であったからです。そして、短い生涯の最後を飾った十字架上での血の洗礼をも先取りしているからではないでしょうか。

 ですから、まず、ヨルダン川のほとりに集まっていた群衆にまぎれて、洗礼者ヨハネの前の来られたとき、ヨハネは、イエスに尋ねました。

「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」そこで、イエスは、答えられました。「今は、止めないでほしい。正しいことを行うのは、我々にふさわしいことです。」(マタイ 3.14b-15)

 このように、そこに集まっていた民衆と、ご自分との連帯を強調なさいました。まさに、罪人であるわたしたちと一体となられたことが、イエスが洗礼を受けなければならった大切な訳なのです。

 今日の福音で、ヨハネは、自分が授けている洗礼と、イエスが授けてくださる洗礼とを、はっきりと区別しております。

「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。・・・その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」

つまり、ヨハネの洗礼は、あくまでも「悔い改めに導くために、水で授ける」(マタイ3.11)のであります。

 ところが、イエスの洗礼は、「聖霊と火で授ける」のであります。

 ルカの文脈では、まず、旧約の預言つまり、

「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。

 あなたたちの息子や娘は預言し

 老人は夢を見、若者は幻を見る。

 その日、わたしは 奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」(ヨエル 3.1-2)が背景にあります。

 ですから、ルカにとっては、エルサレムにおける聖霊降臨の出来事は、このヨエルの預言の成就にほかなりません。

 また、聖霊の洗礼こそが、まさに救いをもたらす霊の洗礼なのであります。一方、ヨハネが授けていた「水の洗礼」は、この霊によって救いをもたらす聖霊と火の洗礼の準備段階としての罪からの回心の洗礼にほかなりません。ですから、水で洗礼を授けるヨハネよりも、<優れた方が来られる>のであります。

 そこで、今日の福音ですが、イエスがヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられた場面を詳しく描いております。

「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」

 ここで、ルカは、聖霊が降る様子を、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」と、誰もが分るように極めて客観的に描いております。

 ここで言われている「天が開け」ですが、ユダヤ黙示文学においては、神の隠れた奥義を神自らが明らかにする啓示を意味します。また、鳩は、イスラエルの民のシンボルといえましょう。

 この場面を福音記者ヨハネは、洗礼者ヨハネだけが、この聖霊の降臨を目撃したと伝えております。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった、しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降(くだ)って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証したのである。」(ヨハネ 1.32b-34)

  この様に、福音記者ヨハネは、イエスの洗礼を、洗礼者ヨハネのあかしの場面として報告しているのであります。

 いずれにしても、肉眼では見ることができない聖霊が、洗礼を受けたイエスに直接降ったことを強調していることには全く変わりはありません。

 次に、ルカは、天の御父を登場させ、イエスが神の愛する独り子であることを宣言します。「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」

 ここで言われている「わたしの心に適う者」とは、神の特別な愛を表わしております。

 それは、多くの者から特定の者を選び出す愛なのあります。旧約聖書では、神の民イスラエルが神から特別に多くの民の中から選ばれたことに由来します。

 

わたしたちが受けた洗礼の恵み

 ここで、わたしたちが受けた洗礼について少し調べて見ましょう。

 まず、パウロのローマの教会への手紙を、引用します。

「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ローマ 6.3-5)

 ですから、洗礼を生涯かけて生きるのは、まさに、イエスの死と復活の神秘に日々あずかることにほかなりません。ですから、同じパウロは、フィリピの教会へ次のような自分の体験をしたためております。

「わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。・・・なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標目指してひたすら走ることです。」(フィリピ 3.10-14)

  新しい年の初めにあたって、一人ひとりがそしてまた、共同体ぐるみで あらたなスタートを切ることができるよう共に祈りましょう。