「預言者は自分の故郷では歓迎されない」
イエスは、なぜ故郷で殺されそうになったのか
今日の福音は、先週に引き続きイエスの初めての里帰りのエピソードの後半に当たります。ですから、次のように続きます。
「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』イエスは言われた。『きっと、あなたがたは、<医者よ、自分自身を治せ>ということわざを引いて、<カファルナウムでいろいろいとしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ>と言うに違いない。』
それこそ、同郷人の よしみで、他で行った素晴らしい奇跡の数かずを、当然この故郷でもやってくれという彼らの願望を察したのでしょうか。
ところが、イエスは次のように念を押されます。
「アーメン、わたしはあなたたちに言う。自分の故郷で受け入れられる預言者は一人もいない。また、まことにわたしはあなたたちに言う。エリアの時代に三年六か月の間、が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリアは、その中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
このように、自分たちの町でも、是非、素晴らしい奇跡を行うべきだという独りよがりの同郷人たちの考えに真っ向から反論なさたことになります。
つまり、かれらの狭い選民意識を、もろに砕く旧約時代の二つの事例をぶつけたのであります。最初のケースは、イスラエルの多くのやもめではなく、よりによって異邦人の貧しいサレプタの、やもめのもとにだけ、預言者エリアが遣わされ、見事な奇跡を行った出来事にほかなりません。
また、エリアの弟子エリシャによって清くされたのは、アラム人の王の軍司令官ナアマンだけだったと言ういやしの奇跡であります。
実は、ヨハネ福音の冒頭にある「みことばの賛歌」にも、神のことばであるイエスを、この世は受け入れないことを、次のように詩っております。
「みことばは、この世にあった。
この世はみことばによってできたが、
この世はみことばを認めなかった。
みことばは自分の民の所に来たが、
民は受け入れなかった。」(ヨハネ 1.10-11)
とにかく、ナザレの人たちは、自分たちこそ神に選ばれた民であると自負していたので、まさか神の救いから外されるはずと、まさに想定外のイエスのおことばに、激怒し、なんと崖から突き落とそうとまでしたのです。
ところが、ルカはその場の状況を次のように描くのであります。
「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」
つまり、イエスの活動は、まさに始まったばかりなので、結局、だれも彼に手を触れることができなかったことを、強調しているのではないでしょうか。それは、同時にイエスの将来つまり、ナザレに別れを告げ、今度は、カファルナウムへ、さらにユダヤの町々へ、そして旅の最後には、都エルサレムへ、天の御父の許へと旅立たれたことを暗示しているのかも知れません。
あなたを聖別し、預言者として立てた
次に、今日の第一朗読ですが、紀元前 7 世紀から 6 世紀にかけてユダ王国で活躍した預言者エレミヤの召命が、感動的に語られております。
「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。
母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し
諸国民の預言者として立てた。
あなたは腰に帯を締め、立って、彼らに語れ
わたしが命じることすべて。
彼らの前におののくな・・・」
実は、今日の朗読箇所では、省かれているエレミヤ自身の反応が次のように挿入されております。
「わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ
わたしは語る言葉を知りません。
わたしは若者に過ぎませんから。」(エレミヤ 1.6)
実は、一昨日に青森明の星中学生の立志式が、修道院の聖堂で執り行われ、わたくしがその司式を務めました。満十二歳になった女子中学生の六人が、その誓いのことばを朗読台から堂々と読み上げました。殆どが、自分の将来の夢を語ったようですが、エレミヤの場合、自分が望んだのでない、預言者の召命を神から突然受けたことにほかなりません。
ですから、とっさの反応は、「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎません。」だったことは、よく理解できます。
けれども、召命とは、神からの招きにほかなりません。つまり、自分の希望を叶えることはではありません。ですから、神は強調します。
「若者に過ぎないと言ってはならない。
わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることを語れ。
彼らを恐れるな。
わたしが共にいて必ず救いだす。」(同上 1.7-10)
そして、神はみ手を伸ばし、エレミヤの口に触れ、宣言します。
「見よ、わたしはあなたの口に
わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる」(同上 1.10)
ちなみに、第二バチカン公会議が打ち出した信徒像ですが、信徒もキリストの預言職にあずかっていることを、次のように宣言しております。
「生活のあかしとことばの力をもって、父の国を告げ知らせた偉大な預言者キリストは、栄光を完全に表わす時が来るまで、自分の名と権能によって教える聖職位階だけでなく、また信徒を通して、自分の預言職を果す。」(『教会憲章』35 項)
今週もまた、派遣されるそれぞれの場で、福音をあかしすることが出来るよう共に祈りましょう。