四旬節第 1 主日・C 年(2016.2.14)

「あなたの神である主を拝みただ主に仕えよ」

 旧約の信仰告白

  先週の灰の水曜日から、いよいよ今年の四旬節が始まりました。

 この恵みの時に回心の体験を充実させるために、まず、今日のみことばを手掛かりに信仰の生き方の基本について総括してみましょう。

 今日の第一朗読は、旧約時代の信仰告白を見事に報告しております。

 選ばれた朗読箇所は、モーセの最後の説教集とも言える申命記からとられています。場面設定は、イスラエルの民が 40 年の永きにわたる荒れ野の試練の旅を終え、ようやくたどり着いたヨルダン川のほとりでとなっております。勿論、実際に執り行う初物を主の祭壇にささげることができたのは、約束の地に実際に入植してから初めての収穫が前提となっております。

 とにかく、感謝の儀式こそ、彼らの信仰告白にほかなりません。ですから、モーセは次のように命じております。

「あなたの神、主の前で次のように告白しなさい。『わたしたちの先祖は、滅びゆく、アラム人であり、・・・エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げをご覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきことと、しるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。』」つまり、今日の言葉で言うならば、イスラエルの先祖たちは、まさに難民たちであり、特にエジプトでは奴隷のようにこき使われた下層民に過ぎなかったのであります。今日の世界情勢においても人類の歴史上、最も多くの難民がきわめて厳しい状況に追い込まれております。

 とにかく、イスラエルの民は、神の偉大な解放のみ業によって見事にエジプトの奴隷の家から救い出されたのであります。

 そして、40 年の荒れ野での旅こそ、彼らにとってまさに信仰の訓練期間にほかかりません。ですから40 日間の四旬節によって洗礼志願者と共に共同体ぐるみで、改めて自分たちの信仰の生き方を再確認する回心の時が、わたしたちにも与えられたと言えましょう。

 特にこの旧約の信仰告白から学ぶべき生き方は、すべての罪かから解放してくださる神に感謝するために、日々の生活のすべてをささげることではないでしょうか。

 

口でイエスは主であると公に言い表す

 次に、今日の第二朗読ですが、まさに新約の信仰告白を見事に説明しております。そこで、パウロはいとも簡潔に次のように宣言しております。

「『みことばはあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』・・・口でイエスは主であると 公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で 公に言い表して救われるのです」

 ちなみに、昨年の待降節第一日曜日から、導入したミサの福音朗読の際、司祭と会衆が額と唇と胸に親指で十字のしるしをするのは、この聖書の個所に由来するのではないでしょうか。

 まず、ここで言われている「みことば」ですが、本来的にイエスご自身にほかなりません。しかしながら、同時にみことばを唱えるキリスト者自身をも表していると言えましょう。

 しかも、生涯かけて主イエスに聞き従うという決意が込められています。ですからそれは、聖書では、「信仰の従順」と言われるキリスト者の信仰の基本的姿勢にほかなりません。たとえば、パウロの手紙の中で、次のようなくだりがあります。

「その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物と通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。」(ローマ16.25b-26)つまり、信仰を生きるとは、まさに自我を捨てて、ひたすら主に聞き従うことにほかなりません。それはまた、自分中心の生き方から神中心の生き方への根本的姿勢転換つまり回心であります。

 

あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ

 また、今日の福音は、毎年四旬節第 1 主日に朗読されるイエスの荒れ野での誘惑ですが、信仰の歩みにおいてつきものの代表的な誘惑の正体と、それに対する闘い方について確認できるのではないでしょうか。

 ここでルカが描くこの誘惑の出来事が、洗礼によって聖霊に満たされたイエスの体験だったことをまず確認すべきであります。つまり、聖霊の働きと悪魔の誘惑が同時進行していたということです。ルカは冒頭で次のような場面設定をしております。

「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダ川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を”霊“によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。」と。

まず、最初の誘惑ですが、四十日間も断食して、飢えは極限に達していたときです、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」といとも大胆できわめて現実的な誘惑です。まず、狡猾な悪魔は、「神の子なら」と、まさにイエスの神的力を示すべきと巧に誘い出します。実は、このセリフは、イエスが十字架に磔にされているとき、その下を通りがかった人々が、イエスを罵ったときにも述べらています。

「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(マタイ 27.40)

 確かに、イエスが、素晴らし奇跡を多く行ったことは事実ですが、神の子の本質は、あくまでも天の御父のご計画に対する従順にあるのであって、人々の好奇心や関心を引くためではないことは、明らかであります。

 けれども、人間は得てして目先のことに捕らわれてしまうので、飢えているとき、まず食べ物を手に入れたいと願うのは当然であります。

 ところが、そこで、イエスは、その差し迫った誘惑をみことばによって見事に払い除けたのであります。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記 8.3b)という申命記のくだりを、とっさにぶつけました。この句は、申命記の 8 章で、モーセが荒れ野の 40 年の試練の旅を振り返る場面の言葉であります。「こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあることを、ご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。」(同上 8.2)と。

 次に、二番目と最後の誘惑に対しても、いずれも同じ申命記のみことばによって誘惑に打ち勝ったのであります。

 つまり、神以外のものに頭をさげてしまう陥りやすい誘惑には、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」そして、神を試みようとする誘惑には、きっぱりと「あなたの神である主を試してはならない。」と厳しく戒められたのであります。

 今週もまた、あらゆる誘惑に打ち勝つことができるよう共に祈りましょう。