四旬節第 2 主日・C年(2016.2.21)

「わたしたちの本国は天にある」

  本日から、いよいよ四旬節の第 3 週目に入りましたので、また、今日のみことばを手掛かりに、特にキリスト者の生き方の基本的道筋を確認できるのではないでしょうか。

 その方向付けを示してくれるのが、今日の第二朗読であります。

 パウロは、この手紙をフィリピからさほど遠くいないエフェソの獄中から、おそらく 54年の後半ごろに書き送ったと考えられます。実は、このフィリピの教会は、パウロの第二回宣教旅行(49-52 年)の際に創立した教会でありあます。とにかく、この手紙は、別名「反駁(はんばく)の手紙」と言われるほど、ユダヤ主義的傾向に対して鋭く反論しているのか特徴です。ですから、今日の朗読箇所でも「今、また、涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは、滅びです。」と極めて手厳しく非難しております。

 したがって、本物のキリスト者の歩むべき道筋をいとも明確に、次のように宣言しています。

「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」

  ちなみに、今日の第一朗読では、アブラハムと主なる神との間に結ばれた契約が報告されておりますが、その内容は、「わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」ありました。つまり、土地を所有していない遊牧民族の族長であったアブラハムにとって、自分たちが定住できる土地を確保できることは、まさに、神から与えられる祝福にほかなりません。とにかく、この「土地」の獲得こそが、旧約聖書においてはまさに祝福のしるしだったのであります。しかしながら、たとえば預言者エレミヤ(紀元前 627-585)は、なんと次のような新しい契約を改めて預言しております。

「すなわち、わたしは律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ 31.33)

 とにかく、パウロが強調したのは、わたしたちが受ける祝福は、イエスのご変容で示された天にあるということであります。

 このように、まさに、わたしたちの一回限りの人生の目標を天に定めることができきるなら、この世で味わう様々な苦しみは、まさに取るに足らないという発想が可能になるのではないでしょうか。ですから、パウロは、また、ローマの教会宛てに、次のような手紙をしたためております。

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足らないとわたしは考えます。・・・被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。・・・わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ 8.18-26)

 

これは、わたしの子、選ばれた者、これに聞け

  次に、今日の福音ですが、毎年、四旬節第 2 主日に、朗読されるイエスのご変容の出来事を、伝えております。ちなみに、マタイ福音とマルコ福音においても、このご変容は、いずれもイエスの第一回目の受難と復活の予告の後の出来事として伝えております。つまり、少なくともペトロとヨハネそしてヤコブにだけは、是非とも、イエスの救いの完成ときの栄光のお姿を、一目見せたかったのではないでしょうか。とにかく彼らが目撃したのは、イエスの外面的な輝きではなく、むしろ神の子としての内面の栄光が輝き出た結果だったと言えましょう。しかも、マルコの描写によれば、「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」ですが、イエスが、旧約の代表的人物つまり、モーセとエリアとなんと、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」と言うのです。ここで言われている「最期」とは、ラテン語では「エクソドス」(Exodus)、つまり出発・旅立ちを表わしています。ですから、イエスの場合は、まさに十字架上の死への旅立ちにほかなりません。それは、いうまでもなく栄光への出発となったのであります。

 とにかく、このイエスの旅立ちを、すでにはらんでいる栄光だったことを、まだ悟ることが出来なかったペトロは、とっさに「仮小屋を三つ建てましょう」と口走ったのであります。

 そのとき、天からの神の声が荘厳に響きました。

「これは、わたしの子、選ばれた者。これに聞け」と。

 つまり、イエスは、神の子しかも、地上からの栄光を獲得するためではなく、あくまでも天の御父の思いを、ご自分の使命として遂行するために「選ばれた者」にほかなりません。しかも、イエスこそ十字架の栄光を担うために選ばれたメシアなのであります。したがって、仮小屋で立ち止まらず、十字架のあるエルサレムに向かって歩み続けるイエスの後について行きなさいという御父の招きが、「これに聞け」という、いとも厳なご命令なのであります。つまり、キリスト者の基本的生き方とは、生涯かけて日々イエスに聞き従い、天の栄光を目指して歩み続けることにほかなりません。それは、パウロが強調するように、「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられて行く」(コリント二 3.18)からであります。

 それはまた、同じパウロが勧めているように、一回限りの人生を天における復活を目指して、日々ひたすら走り続ける躍動に輝く生き方の実践であります。ですから、パウロは、同じフィリピの教会への手紙で、自分の生き方に倣うよう次のように勧めております。

「わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。なんとかして捕えようと努めているのです。自分がキリストに捕えられているからです。・・・なすべきことは、ただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えないなる賞を得るために目指してひたすら走ることです。」(フィリピ 3.10-14)

 この四旬節の間、心して信仰の生き方をパウロにならって確認し、信仰を生涯かけて全う出来るように共に祈りましょう。