四旬節第3主日・C 年(2016.2.28)

「わたしは必ずあなたと共にいる」

 モーセの召命

 今日の第一朗読ですが、まさに旧約聖書に登場する代表的な人物モーセの召命を、感動的に伝えております。

 そこで、モーセの生まれた時の時代背景について簡単に説明してみましょう。

 イスラエルの民がエジプトに移り住んでからは、その人口はおびただし増加し、国中に溢れたというのです。

 したがって、その時代のエジプト王は、イスラエル人に対して、特に軍事的観点から、なんと警戒心を抱くようになったのであります。

「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりにも数多く、強力になり過ぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度(ひとたび)戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」(出エジプト 1.9-11)

 そこで、まず、へブライ人(同時のエジプト社会の下層民)を、重労働に課すことによって抑圧し始めたのであります。

「しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエル人を嫌悪し、・・・重労働によって彼らの生活をおびやかした。」(同上 1.12-14)のであります。そこで、ファラオ(エジプト王の称号)は、さらに残酷な命令を下しますい。つまり、ヘブライ人の男の子を出産の際、性別が分かり次第殺害せよとの命令をヘブライ人の助産婦たちに命じましたが、なんと彼女たちの機転と勇気によって失敗に終ってしまいました。

しかし、ファラオはさらに残酷な命令を下します。それは、生まれたばかりの、へブライ人の男の子は、一人残らずナイル川に放り込めというのです。

 ところが、モーセの母親、そしてその姉の巧な知恵と連携プレーによって、籠の中に寝かせていたモーセは、ナイル川の岸の茂みから、なんと王女によって助けられその子となったのであります。

 それから、宮殿で育てられ、たくましい大人になったモーセは、ある日のこと、痛めつけられている同胞を助けるため、人を殺めてしまったので逃亡し、エジプトからはるかたのミディアン地方にたどりつき、そこで、結婚し幸せな羊飼いのマイホームを築くことができたのであります。

 けれども、丁度 80 歳になったときのことです。なんと、神の山ホレブ(別名シナイ)エジプトで虐げられている同胞を救い出せというとてつもないスケールの大きい解放者の召命を受けるのであります。

そこで、神こそ、虐げられて人々を解放するお方であるというまさに神の基本的行動パターンを、まず明確に示されたのであります。

「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々とした素晴らしい土地、乳の蜜の流れる土地へ彼らを導き上る」

  いつの時代においても、また、地球上のあらゆる地域においても、神は確かに虐げられ苦しめられている人々をつぶさに見、かれらの叫び声を聞き、その痛みを知っておられます。ただ、実際に彼らをどのように救い出し、安住の地に導くことができるのかは、わたしたちがどれだけ神に協力できるに係っていろと言えましょう。例えば、今日急激に増加している難民の問題は、まさにエジプト脱出の現代版と言えるのではないでしょうか。

 とにかく、そこで、モーセは早速、解放者としての召命を受けるのであります。

「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。

 モーセは神に言った、『わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。』

 神は言われた、『わたしは必ずあなた共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。』・・・

 モーセは神に尋ねた。『わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。・・・彼らは、〈その名を一体何か〉と問うに違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。』神はモーセに、『わたしはある、わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。〈わたしある〉という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと』」

 神の名を尋ねたモーセに対して、むしろ神はどのようなお方なのかまさにその本性を見事に表わす、つまり、イスラエルの民に対しての特別な働き掛けを示されたと言えましょう。ですから、ここで言われている「ある」ですが、単に存在を主張するのではなく、むしろ苦しむ人を死から生命へと解放する存在を宣言しているのです。ですから、「わたしは必ずあなたと共にいる」神を強調していると言えましょう。

 すなわち、神は、「どんな時も、どんな所でも。最もふさわしい方法で共にいてくださるお方」にほかなりません。

 

共にいてくださる神を感じてもらう

 最後にここで、今日の日付の『カトリック新聞』に掲載された「わすれない・復興支援の現場から」の記事の一部を紹介します。

「復興住宅に引っ越して3ヶ月になるある方に電話をすると、『わたしを覚えていてくれて本当に嬉しい、この3ヶ月間だれとも話さなかった』と答えてくれました。宮城県の石巻の友人は、『津波の後、いろいろなボランティアが来てくれた。でもあなたたちは他の人とは何か違う。神さまを感じる。わたしもあなたたちのようなボランティア活動をやりたい。』『今度は私から何かをして上げたい』と、彼女は、仙台の元寺小路教会に来て、炊き出しボランティアに参加しています。・・・

  最近、これまでに出会って人たちから『なぜ生きるのか』『神さはいるのか』『幸せとは何か』と質問されます。言葉で答えるだけでなく、“居る”ことによって神さまの光を伝える、これがわたしたちの役目だと思っています。」(心の港 奉献生活者 シルヴィ・ミュラー)

 わたしたちも、特に苦しむ人々に寄り添うことによって、「わたしは必ずあなたと共にいる神」を感じてもらえるように愛の実践に励むことが出来るよう共に祈りましょう。