四旬節第 5 主日・C 年(2016.3.13)  

 「見よ、新しいことをわたしは行う」

新しいことをわたしは行う

 いよいよ四旬節は、最終段階に入いりました。ですから、今日のみことばは、過越しの神秘を深く理解するための準備の個所が選ばれていると言えましょう。

 では、早速、第一朗読ですが、第二イザヤからとられております。

 ちなみに、第二イザヤのテーマは、バビロンの捕囚民に対しての慰めと希望のメッセージにほかなりません。

 ですから、今日の個所も、主なる神の捕囚民のエジプトの奴隷の家からの解放の御業を、極めて感動的に思い起こすことから始まっております。

「海の中に道を通し

 恐るべき水の中に通路を開かれた方、

 戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し

 彼らを倒して再び立つことを許さず

 灯心のように消え去らせた方。」

 このように、海の中に路を開き、イスラエルの民を無事向こう岸へ渡らせてから、何と追手のエジプト軍は、戦車や馬もろも海底に沈められたのであります。

 また、この慰めのメッセージは、まさに出来事によって語られたので、受け止める側は、生き方を変えるほどの力が注がれるのであります。

 そして、また新たな救いの御業が、まさに始まろうとしているので、過去を忘れ、将来に向かって歩み出すようにと、神は、力強く呼びかけてくださいます。

「初めからのことを思い出すな。

 昔のことを思いめぐらすな。

 見よ、新しいことをわたしは行う。

 今や、それは芽生えている。

 ・・・

 わたしは、荒れ野に道を敷き

砂漠に大河を流れさせる。

野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。 荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ」

 50 年以上にわたって捕囚という試練から解放され、約束の地である故国にもどることができるという救いの出来事は、エジプトからの脱出以上の神の驚くべき救いのみ業にほかなりません。

 ですから、自然界においても、荒れ野に道が開かれ、野生動物までもが神をあがめ、砂漠に大河が流されるほどの出来事になるのであります。

 エジプト脱出の際には、海の中に道を「通した」方は、今度は、なんと砂漠に大河を「通す」すなわち「流れさす」のであります。

 このように、神は自然を自由自在に使って、救いのみ業を成し遂げる方なのであります。つまり、海にしろ、砂漠にしろ、神の業を妨害することは、決してできないのであります。

 

人は何歳からでも生まれ変わることができる

 ところで、東日本大震災と福島第一原発事故から、すでに五年も経ってしまいました。

 そこで、この災害と事故から、立ち上がるためにはまさに過越の神秘を体験しなければならないのではないでしょうか。つまり、将来に向かって新たなスタートを切るという決断こそが、過越の体験と言えましょう。

 ここで、この新たな出発ができるように、被災者の方々にしっかり寄り添っている一人の女優さんの体験を紹介します。

 東京電力福島第 1 原発事故の被害のため、福島県富岡町は町全体の避難がいまなお続いております。この町民の多くの方々が住む、おなじ福島県の郡山市の仮設住宅を一軒ずつ訪問する看護師たちの中に、この女優さんの姿があります。栄養バランスを考えた食品を入れた「おかず箱」を持ち、避難されている方々の健康状態をチェックして巡回しています。

 震災から五年。「別人みたいに元気になった人もいるけれど、まだやり直せない人もいる。」と話しています。

女優として活躍していた彼女は、筋萎縮症などを発症した妹さんの看病のために一大決心し、43 歳で看護大学に入学、その後看護師の資格を取得し、「人は何歳からでも生まれ変われると思った。」と語ったそうです。

看病していた妹さんが亡くなって、「何のために看護師になったのか」と無力感に襲われましたが、そのとき大震災が起こり、まず、いわき市での支援活動に参加したそうです。

「なんで私たちがこんな目に遭うのだ」と落ち込む被災者の方を目の当たりにし、自らが体験した「人は何歳からでも生まれ変われる」という言葉が浮かんだのです。

 その後、被災住民支援プロジェクト「きぼうときずな」を立ち上げ、福島県に看護師を派遣する活動を始めました。今では、約 20 名の看護師を率いて 1 年に 50 回も、郡山市といわき市の訪問看護を続けています。

 とにかく、自分が生まれ変わったように、被災者の方々も必ず新たな第一歩を踏み出せると言う思いを胸に活動を続けています。

 このように、実は、キリストの過越の力が、極めて具体的な方法で、多くの方々に注がれているのではないでしょうか。

 最後に今日の福音が伝えるイエスのお姿に注目してみましょう。

 姦通の現場で捕えられた女性が、律法に基づく刑罰つまり「石打の刑」を受けようとしたとき、彼らはイエスを試みようとして尋ねました。それに対して、イエスは、全くお答えにならず、とうとう「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と答えられたのです。

 ところが、それを聞いた者は、年長者から、一人また一人と立ち去ってしまい、その女性とイエスだけが残ったのであります。

 そこで、イエスが、尋ねます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女性が、「『主よ、だれも』というと、イエスは言われた。

『わたしもあなたを罪に定ない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」

 なんと慰めに満ちたおことばでしょう。大切なのは、罪に定めることではなく、もう同じ罪を犯さない新しい将来に向かって出発することにほかなりません。この力もイエスの過越の神秘から流れ出るのではないでしょうか。

 今週もまた、主の過越の神秘により深くあずかることが出来るよう共に祈りましょう。