待降節第 2 主日・C年(2015.12.6)

「主の道を整えその道筋をまっすぐにせよ」

 先駆者ヨハネの叫びにこたえて

   待降節の第2週目を迎えて、まず、洗礼者ヨハネの叫びに耳を傾けましょう。

 この旧約時代の最後の預言者とも言えるヨハネは、ルカ福音によれば、マリアの親類エリザベトの胎内にイエスの受胎告知の丁度 6 か月前に宿されたのであります。(ルカ 1.36)

 ですから、彼が先駆者の使命を果すためにイエスより、一足先にデビュし、大勢の弟子たちを従え、ヨルダン川沿いの荒れ野で、群衆に向かって罪の悔い改めを叫び、ヨルダン川で「悔い改めの洗礼」を授けていたのであります。実は、マタイは今日の場面を、もっと詳しく次のように伝えております。

「ヨハネは、らくだの毛衣ころもを着、腰に皮の帯を締め、いなごと野の蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」(マタイ 3.4-6)

 では、このヨハネが授けていたと言われる洗礼は、わたしたちが受けた洗礼と一体どこが違うのでしょうか。そこで、今日の個所に続く、16 節で、洗礼者ヨハネが、次のように説明しています。

「わたしは、あなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしより優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」

 つまり、洗礼者ヨハネが授けていた洗礼は、3 節で説明されているように、あくまでも「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」に過ぎないもので、一方イエスが授けてくだせる洗礼は、「聖霊と火で授ける洗礼」なのであります。

 つまり、聖霊降臨後に初めて授けられた洗礼であります。ちなみに、パウロは、わたしたちが受ける洗礼の神学的説明を、次のように明確に書いております。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるもとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。・・・私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」

 とにかく、洗礼の恵みは、まさにイエスの死と復活にあずかることであって、古い自分すなわち罪に死んで、復活の新しいいのちに生まれ変わることにほかなりません。ですから、この待降節にあたって、信仰の原点に帰りキリスト者の生き方を再確認する恵みのときを迎えているのではないでしょうしょか。

 

主の道を整え、その道筋をまっすぐに

 ところで、ルカは、今日の福音で、第二イザヤの預言を引用し、洗礼者ヨハネの活躍を描いております。

「これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。

『荒れ野で叫ぶ者の声がする。

<主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。

・・・・

人は皆、神の救いを仰ぎ見る。>』」

 ちなみに、このイザヤ預言が語られた時代背景を振り返ってみましょう。紀元前6世紀ごろ、50 年以上にわたる屈辱の捕囚時代がようやく終わり、とうとうエルサレムに戻ることができるというまさに救いのときの慰めと希望に満ちた預言にほかなりません。

 実は、ルカが引用したイザヤ預言ですが、今日の個所の前の 1 節と 2 節には、次のような預言が語られております。

「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。

 エルサレムの心に語りかけ、

 彼女に呼びかけよ、苦役に時は今や満ち、彼女の咎とがは償われた、と。」

 ここで、言われている「エルサレム」は、捕囚民を表わしています。また 2 節の「苦役の時」は、明らかに捕囚を示しています。つまり、イスラエルの民の咎と罪のゆえに、主なる神は、まさに捕囚という試練を与えましたが、今やそれはすでに過去のことなのです。

 ですから、今こそ、苦役の時が満期になり、慰めと希望の時が開始されようとしているというのです。この第二イザヤの特徴は、時の転換点であり、神は確実に苦役を終わらせ、慰めを与えようと決意なさったことにあります。つまり、この「慰めよ」という神の叫びこそ、時を大胆に転換させようとする神の固い決意を示しているのであります。したがって、回心の捉え方も当然、次のように変わってくるのであります。

「思い起せよ、ヤコブよ、イスラエルよ、 あなたはわたしの僕(しもべ)

 わたしはあなたを形づくり、 わたしの僕とした。

 イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。

 わたしはあなたの背きを雲のように、 罪を霧のように吹き払った。

 わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを 購がなった。」(イザヤ 44.21-22)

 とにかく、22 節で、イスラエルのそれまでの背きや罪をすべてあたかも雲や霧のように「吹き払って」しまうと言うのです。したがって、「わたしはあなたを購った。」と、まさに神の救いは実現しているのであります。ですから、「わたしに立ち帰れ」と優しく呼び掛けてくださるのであります。つまり、神は、わたしたちが悔い改める前に、すでに罪をすて吹き払い、 贖なってくださるというのです。すなわち、救いの時を大きく転換させるためには、わたしたちの回心を待ってはいられませんというのです。つまり、救いのために障害となる罪を、神が無償ですっかり吹き払い、一気に慰めの時を到来させるのであります。

 ですから、わたしたちに求められるのは、まさに罪がすでにすべて白紙にも戻されたとひたすら信頼することにほかなりません。

 実は、知恵の書でも同じように神の憐れみが、次のように歌われております。

「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過される。

 あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。・・・

 命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、

 あなたはすべてをいとおしまれる。」(知恵の書 11.23-26)