待降節第 1 主日・C年(2015.11.29)

「いつも目覚めて祈りなさい」

待降節の意義

  教会歴のB年が終わり、本日の待降節第 1 主日をもってC年が始まりました。この教会歴は、毎年王であるキリストの祭日で締めくくられ、また、典礼における新しい年を、A年、B 年、C年と三年の周期で繰り返します。それは、典礼の源泉である聖書を三年かけて全体にわたって配分された主な箇所を、朗読するためであります。

 待降節の意義ついて、中央協議会で発行する『教会歴と聖書朗読』において、次のような説明が簡単に述べられております。

「待降節には、二つの特質がある。それはまず、神の子の第 1 の来臨を記念する祭典の準備期間であり、また、同時に、その追憶を通して、終末(救いの完成)におけるキリストの第 2 の来臨へと心を向ける期間でもある。この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる。」

 この待望こそ、待降節のまさに中心的スタンスにほかなりません。それを、今日の福音では、「いつも目を覚まして祈りなさい」というイエスの一言で見事に総括しております。

 

いつも目を覚まして祈りなさい

 では、このキーワードを、少し丁寧に味わってみましょう。そのためには、今日の福音朗読個所全体の文脈を確認しなければなりません。ちなみに、わたしたちが使っている聖書の『新共同訳』によれば、今日の箇所つまり、ルカ福書 21 章の 25 節から 28 節までを一つの段落とし「人の子が来る」と見出しが付いております。

 つまり、ここでは、イエスが、終末(救いの完成)の出来事を語っておられるのであります。そこで、ルカは、まず、転変地異を、次のように物々しく描写します。

「太陽と月と星の徴(しるし)が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うであろう。」

 この地異転変が、まさに地球全体を覆うだけでなく、なんと宇宙にも及ぶというのであります。この驚くべき自然界の驚異的異変こそ、万物の支配者であるキリストの再臨の幕開けにほかなりません。

「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見・・・あなたがたの解放の時が近いからだ。」

 では、どのようにして再臨のキリストをお迎えすればよいのですか。イエスははっきりとお勧めになられます。

「あなたがたは、起ころうとしているこれらのすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

 

生活に流されないで日々回心して自分を献げる

 パウロは、その手紙の中で、キリスト者の生き方の基本を極めて具体的に勧めております。すなわち、再臨のキリストを、いつでもお迎えできるように、まさに日々の生き方を改めることこそ、最もふさわしい待降節の心構えにほかなりません。ですから、パウロは、ローマの教会の信徒たちに宛てて次のように勧告しております。

「それゆえ、兄弟たちよ。神の慈悲にたよってあなた方に勧めます。あなたがたの体を、生き生きとした、聖きよらかな、そして神のお気に召す<いけにえ>としてささげなさい。それがあなたがたの霊的な礼拝です。また、この世に流されるのではなく、新しい精神で自分自身を変え、何が神の御心か、・・・見分けるようにしなさい。」(ローマ 12.1-2)

 まず、日々の祈りは、自分自身を聖なる<いけにえ>として天の御父に献げることを土台しなければなりません。つまり、自分の生き方を整えることから始めることであります。それは、毎日の生活全体を、献ささげるという心構えと言えましょう。

 ですから、口先の言葉で終わる祈りではなく、あくまでも自分の生き方そのものを整える心の姿勢なのであります。ですから、この世の価値観に流されてしまわないように、常に、心を神の御心に合わせなければなりません。ちなみに、イエスは、強い口調で次のように忠告しておられます。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりと言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ7.21-23)

 ですから、口先だけで「御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」と唱えるだけではなく、まさに、日々の自分のあらゆる行動とあり方が、御父の御心に適うように整えることが肝心なのであります。なぜなら、それこそ人間的な発想で行動してしまうからであります。ですから、預言者イザヤは、神の思いと人間の思いの本来的な違いを、次のように強調しております。

「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり わたしの道はあなたたちの道とことなると 主は言われる。

 天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ 55.8-9)

 ですから、日々の祈りこそ、まさにわたしたちの心を天の御父の御心に正確に合わせるうに整えることにほかなりません。

 したがって、自分中心の、自分の考え、自分の思いで、流されてしまう生き方を根本的に方向転換することこそが、真の回心ではないでしょうか。

 ちなみに、ガリラヤでのイエスの開口一番のお言葉は、次のよう勧めのおことばでした。

「時は満ち、神の国は近づいた。回心して、福音を信じない」(マルコ 1.14)

 待降節こそ、また、回心の時であります。一人ひとりの個人的回心だけではなく、まさに共同体ぐるみの回心となるよう、共に祈りましょう。