四旬節第4主日・B 年(2015.3.15)

「人の子を信じる者が、永遠のいのちを得る」

旧約聖書が語る救いのクライマックス

 先週すでに確認したようにイスラエルの民のエジプトの奴隷の家からの解放は、まさに神の救いの御業のクライマックスにほかなりません。

 そしてまた、今日の第一朗読が語るバビロンの捕囚からの解放こそ、旧約聖書が語る神の救いの歴史におけるまさに二番目のクライマックスと言えましょう。

 ここで改めて紀元前8世紀頃からの神の救いの歴史を振り返って見たいと思います。

 現に、紀元前 8 世紀においてユダ王国で活躍した預言者たちの警告も空しく、都エルサレムは、とうとう紀元前 587 年に、その頃新たに台頭してきた新バビロニア王国の軍隊によって壊滅的に攻略されてしまいます。おまけに当時の占領政策によってユダ王国の王を始め主だった人たちが、こぞって先勝国の新バビロニア王国の首都バビロンの近くになんと強制移住させられるという、屈辱の捕囚時代が始まったのであります。

 ですから、この捕囚体験こそは、イスラエルが神に背いた罰として蒙った出来事と受け止められているのですが、今日の歴代詩は、「この地はついに安息を取り戻した」時期であったと極めて積極的な説明をしております。

 イスラエルでは、七年目ごとに、畑を耕すことができない「安息年」にするように、まさにこの捕囚時代も、約束の地が「安息を得る」時期にすぎず、必ず再び実りをもたらす恵みの時が、必ず来ることを信じていたのではないでしょうか。

 ですから、50 年ぶりに故国に帰った今こそ、最優先課題としてまずエルサレムの神殿の再建に取り組み、徹底して神に聞き従うイスラエルの本来の生き方に立ち帰るべきであることが強調されているのであります。

 そこで、イスラエルを軍事的に解放したペルシャの王キュロスは、紀元前 539 年に、次のように厳かに宣言したというのであります。

「天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムのご自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。主なる神がその者と共にいてくださるように。」

  わたしたちも、信仰における様々な試練を乗り越えてこそ、さらに信仰を深めることができるということではないでしょうか。

 

パウロの福音理解

  次に今日の第二朗読ですが、パウロが西暦 50 年から 62 年にかけて書いたとされるエフェソの教会宛ての手紙からとられております。

 ちなみにこの手紙の受取人は、「以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていた」(エフェソ 2.11)人たちであります。したがって、パウロは、そのような異邦人が救われたのは、一体何によってか、何のために救われたのかを次のように強調しています。

「あなたがたが救われたのは、恵みによるのです。・・・事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのです。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」

 したがって、まさに洗礼によってキリスト・イエスにおいて新たに生れ変ったわたしたちこそ、イエスの救いの御業に参加できるようになったことにほかなりません。それは、キリストの祭司職に与かってミサをささげ、キリストの預言職にあずかって福音を宣べ伝え、キリストの王職に与かって小さき人々に仕える愛の実践に励むことではないでしょうか。

 最後に今日に福音で、まさにわたしたちの救いの核心に触れるイエスのおことばが告げられております。

 これは、夜、人目をはばかってひそかにイエスと尋ねた議員のニコデモとの対話というスタイルで宣言されたおことばであります。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが、一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。・・・御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすてに裁かれている。・・・真理を行う者は、光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」

  パウロが、わたしたちはキリスト・イエスのおいて新たに造られたので、まさに善い業に励むことができるようになったことを強調していますが、イエスは、「その行いが神に導かれてなされた」と断言しておられます。

 ですから、わたしたちが使徒職を実践できるのは、聖霊の導きと支えがあるからにほかなりません。

 したがって、聖霊の導きを実際に体験できるために、教会はその典礼活動を中心に据えているのであります。50 年前の第二バチカン公会議は、教会の刷新のために最初に取り組んだのは、言うまでなく、典礼改革でありました。ですから、その成果をまとめた『典礼憲章』は、次のような極めて重要な宣言をしております。

「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉である。使徒的な活動が目指すところは、すべての人が信仰と洗礼によって神の子となって一つに集まり、教会の中で神をたたえ、<いけにえ>にあずかって主の晩さんを食することにあるからである。」(10 項)

 四旬節の後半に当たって、共同体が一丸となってより充実した典礼活動が出来るように、共に祈りたいと思います。