四旬節第3主日・B 年(2015.3.8)

 「あなたはいかなる像も造ってはならない」

十戒を今日に生きる

 早速、今日の第一朗読ですが、出エジプト記が伝えるシナイ山での契約の出来事の核心に触れる報告であります。

 とにかく、モーセの素晴らしいリーダーシップの下(もと)、エジプトの奴隷の家から神によって見事に解放されたイスラエルの民は、脱出後三か月目にやっと神の山シナイ山にたどりつくことができました。そのときの様子も、極めて感動的に次のように描かれております。

「イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目(みつきめ)のその日に、シナイの荒れ野に到着した。彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野で天幕を張った。

 イエスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。

 モーセが神のもとに登って行くと、山から主が彼に語りかけて言われた。

『ヤコブの家にこのように語り

イスラエルの人々に告げなさい。

あなたたちは見た

わたしがエジプト人にしたこと

また、あなたたちを鷲の翼にのせて

 わたしのもとの連れてきたことを。

今、もし、わたしの声に聞き従い

わたしの契約を守るならば

あなたたちはすべての民から選ばれて

 わたしの宝となる。

世界はすべてわたしのものである。

あなたたちは、わたしにとって

 祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト 19.1-6)

  とにかく、神によるエジプトにおける<抑圧>からの解放は、まさに「神を神とする」真(まこと)の信仰<への自由>であったといえましょう。ちなみに、エジプトでは奴隷として酷使されていた烏合の衆にすぎなかったヘブライ人が、シナイ山での神との契約によって確かに部族連合として神の民を形成できたのであります。

 実に「荒れ野」という現実の 真まった只中で、約束の地乳と蜜の流れるカナンをめざして歩み続けることができたことこそ、まさにイスラエルの信仰の証にほかなりません。ところで、この契約は、十の掟として結ばれたことを、今日の朗読箇所が雄弁に物語っております。この十戒こそが、紀元前 13 世紀のモーセの時代から、今日にいたるまで、様々な現実社会を生き抜いきたことも事実であります。なぜなら、この十戒は、単に個人の生き方を教えるだけでなく、それ自体明確な一つの社会像をもっているかです。

 まず、第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」ですが、人間生活のすべての領域における神の主権と支配の宣言にほかなりません。したがって、今日(こんにち)特に生命科学の分野において神の領域に土足で踏み込むようなことは決して許されることではありません。

 第二戒「あなたにはいかなる像も造ってはならない。」ですが、これは、神のおられる所を制限し、神に啓示される場所をも人間が勝手に設定してはいけないという掟です。

 申命記では、「堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。」(4.16)となっていますが、まさに自分好み神を造ることを禁じているのであります。ですから、この世の権力や繁栄に頭を下げることも、まさに偶像崇拝にほかなりません。ちなみに、イエスが荒れ野で悪魔から受けた二番目の誘惑は、この偶像崇拝の誘惑だったと言えましょう。

 ルカのその有様さまを、次のように巧に描いております。

「さらに、悪魔は、イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。

そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、わたしを拝むなら、みんなあなたのものとなる。』イエスはお答えになった。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』

   また、サムエル記では、まさに今日的偶像崇拝を次のように宣言しています。「高慢は偶像崇拝に等しい。」(サムエル記上 15.23)

 さらに、パウロも、次のように厳しく忠告しています。

「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」(コロサイ 3.5)

 第三戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」は、神の名を呪術的に間違って唱えることを禁じ、まさに神の超越性と自由を守るのであります。

 次に、第四戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」ですが、ちなみに昔唱えていた『公教会祈祷文』には、「公教会の六つの掟」の第一として「主日と守るべき祝日とを聖とし、ミサ聖祭に与かるべし」が掲げられていました。また、第五戒「あなたの父母を敬え。」ですが、まさに家庭における宗教的秩序を示しております、つまり、親には、神を日常生活において代表する生き方が求められているのです。ですから、親を敬うのは、親が子に対し、次の世代に対して重い責任を持っているからにほかなりません。

 以上五つの掟は、神の絶対的な主権・自由・超越性、また時間と空間における宗教的秩序を重んずるための掟といえましょう。ですから、イエスはこれらをまとめて「神を愛する」戒めとされたのです(マルコ 12.29-30 参照)

 次に、第六戒「殺してはならない。」ですが、あくまでも共同体内のメンバーの「生命」の保護の規定であります。ですから、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ記 19.18)も、まさに同胞という枠内に限られた掟だったのが、イエスによってその枠が取り除かれ、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。・・・あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも、向けなさい。」と、全く新しい愛の掟になったのではないですか。

 

十字架につけられたキリストを宣べ伝える

 ところで、今日の第二朗読で、パウロは、福音宣教に関して極めて本質的なことを、次のように宣言していると言えましょう。

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ宣べ伝えているのです。」

  分裂騒ぎがあったコリントの教会の信者に、まさに福音理解の原点に立ち返ることによって自分たちの信仰の土台を再構築してほしかったのではないでしょうか。つまり、「十字架」は、単に宣教内容だけでなく、宣教のあり方そのもとをも決めるのです。なぜなら、「十字架のことばは、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力だからです。」(コリント一、1.18)

 今週もまた、実りある四旬節を生きるよう努めましょう。