四旬節第2主日・B 年(2015.3.1)

「神はアブラハムを試された」

試練を乗り越え摂理を生きる

 今日の第一朗読ですが、アブラハムが、自分の人生における最大の試練を見事に乗り越えた感動的なエピソードを伝えております。

 朗読箇所は、3 節から 8 節までがはぶかれておりますので、念のためそれらの節をも含めてこのドラマの展開を振り返ってみたいと思います。

 まず冒頭で、「神はアブラムを試された。」とありますから、この出来事は神が、アブラハムに過酷な試練を体験させることによって彼の信仰を試し、さらに確かなものに育て上げるためであったことはきわめて明らかであります。

 ですから、神はまず、直接彼に向かって呼び掛けます。「アブラハムよ」と。しかも、神が命じられたことは、たとえ当時ある民族で実際に人身ごくうのような残酷な慣習があったとしても、アブラハムにとっては、まさに最大の試練であったことは、疑う余地はないと思います。

 なぜなら、この愛する独り子イサクこそ、アブラハムが、100 歳しかも妻のサラがすでに90 歳になってようやく授かった一粒種なのです。ですから、アブラハムにとっては、「イサこそ、我がすべて」と断言できるほど溺愛していた息子にほかなりません。それが、なんと生贄の小羊として焼き尽くせという命令であります。

 ところが、8 節では、「次の朝早く、アブラハムはロバに鞍を置き、献げものに用いる 薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。」と何のためらいもなく、いとも潔くテキパキと行動に移っています。しかも、「次の朝早く」と念を押していますので、恐らく夜中にこの残酷な命令を受けたのでしょうか。実は、この創世記では、すでにアブラハムが深い眠りに襲われた体験があります(15.12 参照)が、真夜中の悪夢として無視できたかもしれませんし、あるいは、こんな残酷な試みは神からではないと開きなおって、逆に神を試みることもできかもしれません。

 けれども、さすが信仰の人アブラハムのことです。黙々と神の命令に従ったのであります。

 ところで、この事を全く知らないイサクは、けなげにも「焼き尽くす献げ物にする羊はどこにいるのですか」と、いち早くことの異常さに気づきました。

 そこで、アブラハムは、優しくしかも確信をこめて息子に答えます。

「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊は、きっと、神が備えてくださる。」と。まさに、アブラハムが、神の摂理に全面的に信頼していることを息子に言い聞かせます。

 このアブラハムの摂理信仰とは、まだ明らかにされていないけれども、すべてを善きに計らってくださる神への全面的な信頼にほかなりません。

 ですから、その信仰を暗示しているかのようにアブラハムは、出発して三日目に目的地を「目を凝らして」じっと見つめます。そして、一緒に連れて来た二人の若者にさりげなく命令します。

「お前たちは、ロバと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また二人で戻ってくる。」

 とにかく、目的地に着いてからのドラマは、今日の朗読箇所では少し省かれ言い方に変えていますが、原文では、次のように極めてダイナミックに描かれております。

「アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そして、アブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

 そのとき、天から主のみ使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼び掛けた。彼が『はい』と答えると、み使いは言った。

『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。』

 アブラハムが目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた・・・

 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも『主の山に、備えあり』と言っている。」(14 節)

 ちなみに、ヘブライ書は、この出来事を、神の独り子イエスの死と復活の前表と解釈しています。

「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもりましたが、それは死者の中から返してもたったも同然です。」(11.19)

 

これはわたしの愛する子これに聞け

  次に今日の福音ですが、マルコが伝える主のご変容の出来事を、報告しております。

この福音書の文脈では、イエスが初めて弟子たちに向かって受難の予告をなさってから六日後の出来事となります。

 いずれにしても、イエスの受難の予告こそ弟子たちのとっては、まさに予想外の試練にほかなりません。ですから、マタイによれば、この第一回目の予告を宣言された直後、ペトロは、なんとイエスを、大胆にも次のようにいさめ始めたというのです。

「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

  ですから、イエスの受難と死は、弟子たちにとっては、まさに受け入れがたい最大の試練であったと言えましょう。したがって、この試練を乗り越えることができるように、せめてペトロ、ヤコブ、ヨハネだけにでも、イエスの栄光に輝くお姿を垣間見せたのではないでしょうか。

 ところで、パウロは試練について、つぎのような大変親切な助言をしております。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。

 神は真実な方です。あなたがたを耐えられないようない試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(一コリント 10.13)

 また、天の御父が厳かに命じられたように、わたしたちの信仰の生き方は、常に「主に聞き従う」ことにほかなりません。つまり、日々の生活の只中で、語りかけておられる主のおことば一つひとつに信仰の耳をそばだてることではないでしょうか。そうしないなら、ペトロのように「神のことを思わず、人間のことを思って」生きてしまします。

 この四旬節にあたって日々忠実に主に聞き従い、また改めて神の摂理に対する信仰を強め、特に試練を乗り越える力を共に祈り求めたいと思います。