四旬節第 1 主日・B 年(2015.2.22)

「回心して福音を生きる」

滅びと救いの道具としての水

 早速、今日の第一朗読ですが、創世記が語る「洪水物語」の後半の個所であります。

 この洪水物語は、実際に起こった歴史的出来事を語っているのではなく、まさに、救いの歴史が展開する舞台設定にあたる「原初史」の一場面に過ぎません。けれども、救いの歴史において実現する水による救いの出来事を、極めてドラマチックに説明している個所と云えましょう。

 とにかく、古い伝承に基づいて、神の思いを、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計らっているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(創世記 6.5-6)と、擬人法によって描いています。したがって、主なる神は、ノアに向かって宣言します。

「わたしは肉からなるものをみな絶やそうと思う。彼らの故に地は暴虐に満ちているから。わたしは地もろとも彼らを滅ぼそう。」(同上 6.13)

  けれども、神の救いの業は、同時進行するのであります。

 なぜなら、その地球規模で人類が堕落した世代に、「ノアは、神に従う無垢な人であり、神と共に歩んでいた」(同上 6.9)からにほかなりません。

 ところで、今日の朗読箇所は、洪水が終わり、まさに第二の創造とも言える神の救いの契約が宣言される場面であります。

「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。・・・わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」

  実は、ここで言われている「契約を立てる」ですが、まさに神の超越した働きの表現で、神が一方的に「契約を結ぶ」ことにほかなりません。とにかく、この「契約」は、極めて聖書的な言葉で、新約聖書に至るまで、頻繁に使われます。したがって、この「契約」によってこそ、神と人間との親密な絆が結ばれるのであります。

 ですから、ヘブライ書では、この洪水物語を救いの歴史の視点で、次のように説明しています。

「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」(ヘブライ 11.7)

   ですから、今日の第二朗読では、ペトロが、洪水物語を救いの出来事として受け止めているのであります。

「この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表わされた洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたを救うのです」と。

 

回心して福音を生きる

 次に、今日の福音ですか、四旬節の課題を、見事に宣言していると言えましょう。

 つまり、イエスが、出身地のガリラヤで、いよいよ宣教活動を始められたことを、次のように極めて簡潔に伝えております。

「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい。』と言われた。」

  ちなみに、典礼暦における四旬節の 40 日間は、まず聖書的背景からすると、今日の福音の冒頭にあるように、イエスが荒れ野で 40 日間にわたって試練を体験なさったことでも明らかなように、40 という数かずは、まさに試練の期間を表わすのであります。 

 ですから、イスラエルの民が、乳と蜜の流れる約束の地にたどりつくまで、40 年間も荒れ野を旅しなければならなかったのであります。

 また、洪水物語でも、「洪水は 40 日の間、地の面に続いた。」(創世記 7.17)と強調しております。

 ですから、典礼においては、洗礼志願者が 40 日かけて、洗礼を受ける準備をする期間にほかなりません。と同時に共同体ぐるみで、すでに受けた洗礼の原点に立ち返り回心の道を歩む恵みの時期にするのであります。

 そして、この回心は、今日の福音で、イエスの最初の宣教のおことばとして伝えている「時は満ち、神の国は近づいた。回心して福音を信じない。」と宣言されております。

 まず、ここで言われている「時は満ち」ですが、実は、ガラテヤ書にも、「時が満ちると」(4.4)とありますが、まさに、神の救いの歴史において定められた救いの完成の時の到来を告げる言葉であります。ですから、ヘブライ書では、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によって語られました。」(1.1-2)と強調しています。

 ですから、初代教会の最初の時期には、この救いの完成がすぐにでも実現するのではないかという緊張感を抱いていたようです。

 したがって、初代教会にならって、この四旬節を、信仰の新たな自覚をもって過ごすべきではないでしょうか。

 また「神の国は近づいた」ですが、たとえば、ルカ福音書では、次のようなイエスのおことばを伝えております。

「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。・・・神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(11.20; 17.20-21)

  したがって、イエスが行われたすべての奇跡は、まさにわたしたちの只中に神の国が実現していることを、具体的に示したことにほかなりません。

 さらに、イエスが命じられた「回心して、福音を信じなさい」こそ、まさに四旬節の課題と言えましょう。

 実は、この回心ですが、ギリシャ語では「メタノイア」と言い、生き方の根本的転換を表わす言葉であります。つまり、自分中心の姿勢から神中心の生き方に切り替えることなのであります。ですから、イエスは、いみじくも宣言なさいました。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思い者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ 8.34-35)

 したがって、「福音を信じない」とは、まさに福音であるイエスに全面的に従う生き方を実践することではないでしょうか。

 この四旬節にあたって、一人ひとりが、また共同体ぐるみで忠実に回心の道を歩むことができるように共に祈りたいと思います。