年間第 5 主日・B 年(2015.2.8)

「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸だ」

パウロの福音体験

 まず初めに、今日の第二朗読のコリントの教会への手紙を書いた、パウロの回心ついて簡単に振り返ってみたいと思います。

 そこで、福音記者ルカが書いたとされる使徒言行録が報告している、パウロのまさに感動的な復活のキリストとの出会いの体験をみて見ましょう。

「さて、サウロ(ヘブライ名)はなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それはその道に従う者(キリスト者)を見つけ出したら、男女を問わず縛りあげ、エルサレムに連行するためであった」(使徒言行録 9.1-2)

  実は、パウロはフィリピの教会への手紙で、次のように自己紹介をしています。

「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、生粋(きっすい)のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした。」(フィリピ 3.5-6)と。

 ところが、このキリスト教徒の迫害者が、なんと復活のキリストに打ちのめされたのであります。そのまさに劇的な出来事が、次のように報告されています。

「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天から光が彼の周りを照らした。

 サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか』と呼び掛ける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。

『わたしはお前が迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、お前のなすべきことが知らされる。』・・・サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは、三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。」(使徒言行録 9.3-9)

 そこで、ダマスコにいた弟子のアナニアに、次のような主からのお告げがあったのであります。

「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」(同上 9.15-16)

 まさに、キリスト者の迫害者からキリストの使徒に見事に変身させられたのであります。

 ですから、今日の第二朗読が強調しているように、彼が福音宣教のために自分の人生を掛けていることを、次のように宣言できたのであります。

「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。

 そうせずにはいられないからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。・・・・福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」

 

福音を宣べ伝える者の足は、なんと美しいことか

   さらに、同じパウロは、ローマの教会への手紙において福音宣教の基本的仕組みを、極めて適格に次のように説明しております。

「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。・・・・実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストのことばを聞くことによって始まるのです。」(ローマ 10.14-17)

   ですから、この福音宣教は、具体的には、まず家庭から始めるべきではないでしょうか。

 まず、親が子どもたちにイエス・キリストを伝えなければなりません。つまり、幼児洗礼を授けた子どもたちの信仰教育の第一の責任者はいうまでもなく、親にほかなりません。したがって、たとえば信者がカトリック信者でない相手と結婚する前に、次のよう約束を教会において書名捺印をもっていたします。

「カトリック信徒である私は、この度カトリック信徒でない○○と結婚するにあたり、 次の 2 項について誠実に約束いたします。

1. カトリック信仰を常に忠実に守ること。

2. 生まれてくるすべての子ともが、カトリック教会の洗礼を受け、信仰教育をされるよう最善の努力をすること。

 つまり、親子が一緒に家庭で祈る習慣を、幼いときからしっかりと身につけさせ、機会を見て、聖書を親子で分かち合うことを実践することが肝心です。

 実は、パウロが晩年、弟子のテモテ宛に次のような大切な勧告を荘厳に書き送っております。

「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者とを裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人びとは自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを呼び寄せ集め、真理から耳を背け、作り話のほうにそれて行くようになります。

  しかしあなたはどんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者としての役目を果たし、自分の任務を全うしなさい。」(二テモテ 4.1-5)

  ですから、わたしたちの教会はまさに宣教共同体としてまず各家庭で福音を宣べ伝えるだけでなく、地域の人々にも折に触れイエス・キリストを告げ知らせる大切な使命があることを自覚しなければなりません。

 しかも、この福音宣教は、常に主と共に実践する尊い務めであることを、マルコの福音によって確認することができます。

「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。・・・』主イエスは、弟子たちに話した後のち、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(マルコ 16.15-20)

 今週もまた、このミサの終わりにわたしたちはそれぞれの場に派遣されます。日々出会う人々に、福音を宣べ伝えることが出来るように共に祈りたいと思います。