年間第4主日・B 年(2015.2.1)

 「権威ある新しい教えだ」

 

    福音記者マルコが、福音書という文学類型を編み出して西暦 65 年から 70 年にかけてイエスの生と死の物語を、極めて生き生きと書き上げたとされております。ですから、四福音書の中で最初に書かれた福音書であります。

 早速、今日の福音ですが、ユダヤ教の指導者たちによって代表されるエルサレムではなく、民衆によって代表される辺境の地ガリラヤでの最初の宣教活動を見事に要約した箇所であります。

「イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。

律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」

 ここで、まず、イエスの活動の場が、人びとが大勢集まる安息日の会堂であることがよく分かります。そこで、「教え始められた。」とありますが、一体何を教えられたのか、その内容については、何も語っておりません。ただ、文脈からしますと、すでに 14 節と 15 節で、「イエスは神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」とまとめられておりますので、イエスが教えられた内容を確認することができます。

「時は満ち」という冒頭の言葉で宣言されておりますが、まさにイエスは、神の救いの歴史のクライマックスの到来を、或る種の緊張感を持って語られたと想像できます。ちなみに、この時の到来を、パウロは次のように強調しております。

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ1.1-2a)

 ですから、救いの歴史のまさに最終段階に突入したという、まさに意気込みがあるのではないでしょうか。

 したがって「神の国は近づいた」と、力強く宣言なさたのです。つまり、神の愛と慈しみに基づく支配は、イエスにおいて確実に実現していることにほかなりません。

 そこで、このイエスの福音を知らされるわたしたちに求められるのは、「回心」であります。原文のギリシャ語では、メタノイアとなりますが、自分の全存在をもって神に立ち帰り、全面的に服従するという生き方の根本的は方向転換にほかなりません。ですから、自分の欠点などを部分的に改めるようなことではありません。したがって、「福音を信じなさい」とは、福音であるイエスに徹底して従うということではないですか。

 なぜなら、イエスは、次のようにはっきりと宣言なさったからです。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ 8.34b)

 ですから、イエスの弟子としての生き方は、まさに生涯かけて日々自分に死に、イエスに忠実に従うというメタノイアの歩みにほかなりません。

 

権威ある新しい掟だ

 マルコの特徴は、イエスを感動的に描くことにありますので、「人々はその教えに非常に驚いた。・・・これは一体どういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聞く。」と語っています。

 とにかく、イエスは、その時代の宗教指導者である律法学者たちが、伝統の権威に基づいて教えることしかできなかったのに対して、まさに新しい権威つまり、みことばの力に基づいて教えられたのであります。

 ですから、悪霊に向かって、「黙れ。この人から出て行け。」と御叱りになると、だちどころに、「汚れた霊は、その人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」のであります。つまり、イエスが、「汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」のであります。

 ちなみに、この悪霊を追い出すという奇跡ですか、まさに、神の国の到来のあかしにほかなりません。つまり、悪霊のとりことなっていた人間の世界に、神の平和と正義と愛の王国がイエスによって建設される代表的なしるしだったのです。すなわち、悪霊に拘束されている状態からの解放にほかなりません。ですから、この解放は、イエスの時代だけでなく、今日(こんにち)においても大いに必要なイエスの御業であります。それは、まさに地球規模の経済的抑圧、構造的暴力、人種差別などからの福音による解放にほかなりません。

 しかも、イエスの教えがまさに「新しい教え」であることは、福音書によって確認できます。特に、マタイ福音記者は、イエスの教えの新しさを、次のように強調しています。

 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。・・・あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである。」(マタイ 5.38-45)

   この新しい愛の掟を、キリスト教徒は守ってこなかったのではないですか。十字軍を始め、カトリックとプロテスタントとの百年にわたる戦争など、新しい愛の掟を神の名のもとに破ってしまったのではないですか。

  最後に、この地上においてイエスによって始まった神の愛と慈しみの支配つまり神の国を受け継ぐために、一体何を実践すべきか、イエスの荘厳な宣言に耳を傾けたいと思います。

「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。・・・

はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたことは、わたしにしてくれたことである。』」(マタイ 25.34-40)

 今週もまた、福音を忠実に生き、それを人々に宣べ伝えることができるように、共に祈りたいと思います。