年間第3主日・B 年(2015.1.25)

 「わたしについて来なさい 人間をとる漁師にしよう」

福音を宣べ伝えるイエス

 今日の福音の冒頭で、イエスのこの地上での働きを、極めて完結に要約しております。

「イエスは、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」

 先駆者ヨハネが捕えられたので、まさに、イエスの出番となったのであります。しかも、イエスの働きの場は、ガリラヤ地方でありました。

 とにかく、福音記者マルコは、イエスが何をなさったのかを、一言で説明しています。つまり、福音を宣べ伝えたことにほかなりません。

 では、この福音とは、一体何ですか。それば、「イエス・キリストが宣べ伝えた神の救い・神の国の到来」となりましょう。あるいは、もっと簡潔に言うならば、「イエス・キリスト自身」となりますので、イエスはご自分を伝えたことになるのであります。

   ですから、マルコによれば、イエスは、弟子たちと群衆に向かってイエスの弟子になるための基本的な心構えを、次のように宣言なさったのであります。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ 8.34-35)

 

イエスの弟子となる

 ところで、今日のミサの主題は、「イエスの弟子となる」と要約できると思います。

 そこで、マルコは、最初の四人の弟子たちの召命の場面を、感動的に伝えております。

「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」

 とにかく、マルコは、イエスがまず彼らをご覧になり、いきなり「わたしについて来なさい。」と命じられたことを強調しています。

 実は、福音記者ヨハネも、イエスと弟子たちのとの関係を次のように断言しています。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだ。」(ヨハネ 15.16)

  また、預言者エレミヤは、自分の預言者としての召命はなんと母親の胎内で受けたことを、次のように報告しています。

「主のことばがわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。』」(エレミヤ 1.5)

  さらにパウロは、なんと天地創造の前に、父なる神は、キリストにおいてわたしたちを、すでに選ばれたことを、次のように強調しています。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソ 1.4-5)

 ですから、わたしたちがイエスの弟子となる前に、まず、神の子に定められたことを、確認すべきです。

 では、実際にイエスの弟子となるには、どんな覚悟と心構えがなければならないのですか。

 それは、すでに引用したイエスのおことばによって確かめることができます。

 つまり、「自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従うことです。」

   確かに、最初の弟子たちは、まず、すぐに網を捨てました。つまり、それまでの彼らの生業を潔く放棄したのです。

 また、「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に船に残して」とありますから、結局、肉親やその他の人間関係から離れなければなりませんでした。

 しかしながら、イエスが、まず強調なさったのは、「自分を捨てる」ことにほかなりません。これは、言い換えれば、「自分を無にして、自己主張を断念し、全面的にイエスに従うこと」ではないでしょうか。

 この「自分を捨てる」ことの難しさは、たとえば、弟子たちの 頭であったペトロのとった態度からもよく分かります。

 それは、イエスが、初めてご自分か受けようとしておられた受難と復活を予告なさったときです。なんと不遜にもイエスをわきへお連れして、いさめ始めたというのです。

「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

 そのペトロに対して、イエスは厳しく叱りつけました。

「サタン、引き下がれ。お前は、わたしをつまずかせようとしている。お前は、神のことではなく、人間のことを考えている。」(マタイ 16.23)

 ここで言われている「サタン」とは、悪魔と言う意味ではなく、「反対者」を表しています。つまり、わたしたちは、たとえ善意と熱意があっても気がつかないで神に逆らってしまうのではないでしょうか。

 あるいは、人間的な発想から脱皮できないために、神の思いまで発想転換がなかなかできないという狭い自我にほかなりません。

 とにかく、イエスの弟子になるためには、善意や熱意だけでは足りません。

 まず、日々自分に死ぬという覚悟が必要なのです。

 最後に、福音記者ヨハネが伝える最初の弟子たちとイエスとの極めた印象的な出会いを振り返ってみましょう。

「その翌日、ヨハネはまた、二人の弟子と共に立っていた。そして、イエスが歩いておられるのを見つめて言った。『見るがよい。神の小羊だ。』二人の弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。イエスは振り返り、二人がついて来るのを見て、『何を求めているのか』と仰せになった。彼らは、『ラビ、どこにお泊りですか』と尋ねた。イエスはお答えになった、『来なさい。そうすれば分かる』。そこで、二人はついて行き、イエスが泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスの所に留まった。時は午後四時ころであったあった。」(ヨハネ 1.35-39)

  わたしたちも、イエスとの出会いが日々深まって行くように共に祈りたいと思います。