年間第 2 主日・B 年(2015.1.18)

「主よ、お話くだい、僕は聞いております」

 典礼暦は、それぞれの季節を終え、ふたたび年間に入りました。

 特定の神秘を祝う各季節とは異なり、この年間には、むしろキリストの神秘全体を記念します。今年は、先週の月曜日から年間が始まり、四旬節前の火曜日(2 月 17 日)まで続きます。

 それでは、早速、今日の典礼のテーマを設定してみましょう。つまり、今日の聖書朗読箇所から、あえて一つの主題を見つけ出してみたい思います。

 まず、第一朗読は、サムエル記上が伝えるサムエル少年の召命の場面が、感動的に語られています。また、今日の福音は、福音記者ヨハネが伝える最初の弟子たちの召命が具体的に報告されております。

 この第一朗読に登場するサムエル少年こそ、紀元前 12 世紀の宗教指導者であり、イスラエルが王国になる前の、最後の士師でした。

 実は、彼が、王政を導入するときの一大事においてまさに重要な役割を担ったのであります。ですから、イスラエルの激動の時代に、士師として活躍した人物にほかなりません。しかも、珍しく、なんと彼の少年時代にさかのぼり、彼の召命が語られております。

 

サムエル少年の神体験

 ところで、今日の個所は、3章の1節から次のように始まっております。

「少年サムエルは、エリのもとで主に仕えていた。そのころ、主が語られることはまれで、幻を見ることもあまりなかった。ある日、エリは自分の部屋で寝ていた。彼の目がかすんできて見えなくなっていた。」(サムエル記上 3.1-3a)

 ここで、サムエル少年(ユダヤの伝承では丁度 12 歳)の生い立ちについて少し説明したいと思います。

 紀元前 12 世紀ごろですが、彼の父親は、エルカナであり、母親はハンナでしたが、当時は一夫多妻の時代ですので、異母つまり、ベニンナとその息子と娘もおりました。とにかく、母ハンナは、子宝に恵まれず、そのためもう一人の妻ペニンナにいびられ大変不幸な状態に置かれていたのです。

 そこで、母ハンナは一大決心をして、神殿で涙ながらに真剣に祈り、次のような誓いを立てたのであります。

「万軍の主、もしあなたが、あなたのはしための苦しみに目を留め、わたしくしを顧みて忘れることなく、わたくしに男の子を授けてくださるならば、わたくしはその子の一生を主に捧げます。」(同上 1.11)

  そこで、年が改まってハンナは身ごもり男の子を産みました。彼女は、「わたしがこの子を主にお願いしたからです」と言って、つまり「神に願って与えられた」を意味するサムエルと名付けたのであります。

 ですから、この母親の誓いどおり、サムエルが乳離れしたころ、彼を連れて神殿の祭司エリのもとを尋ねます。

「祭司さま、覚えていらっしゃいますか。わたくしはここであなたの傍らに立って主に祈っていた女でございます。この子が授かるようにと、わたくしが祈り、主はわたしの願いを聞きいれてくださいました。ですから、わたくしもこの子を主に委ねます。この子は生きている限り主に委ねられた者です。」(同上 2.26-28)

 ここで、再び、今日のサムエル少年の召命の場面に戻りたいと思います。

 まず、サムエルが寝ていたのは、なんと神殿の奥の神の箱が安置されているそばのようです。ここで言われている「神の箱」とは、「神の櫃(ひつぎ)」とも言われるモーセの 10 戒が刻まれた二枚の石板が納められた箱のことです。

 ここで注目すべきことは、主なる神が、名指しで、「サムエル、サムエル、と呼ばれた」ことです。実は、同じような神秘的な体験は、例えばモーセにもありました。つまりシナイ山で、モーセは感動的な神との出会いを体験したのであります。

「神は、柴の中から彼を呼び、『モーセよ、モーセよ』と仰せになった。彼は、『はい、ここにおります』と答えると、神は仰せになった、『ここに近寄るな。お前の足の履物を脱げ。お前の立っているところは聖なる土地だからである。』」(出エジプト記 3.4-5)

  ところが、サムエルの場合は、まだ、神を知らず、神に聞くと言う体験もなかたので、てっきりエリが呼んだものと勘違いして、早速、エリのもとに走って行ったのです。

「お呼びになったので参りました。」

  けれども、呼んでいないエリは、優しくサムエルを諭します。

「わたしは呼んでいない。戻ってお休み」

  そこで、なんと、同じことを三回も繰り返したというのです。

 けれども、幸いにしてさすが宗教家のエリです、たとえ目が見えなくなっても霊的な感性は一向に衰えてなかたのであります。つまり、「少年を呼ばれたのは、主であると悟った」のです。ですから、サムエルを、次のように優しく指導することができたのであります。

「戻って寝なさい。もしまた呼び掛けられたら、『主よ、お話ください。僕は聞いております』と言いなさい。」

  これこそ、信仰教育の原点にほかなりません。ですから、パウロも、次のように断言しています。

「信仰は聞くことから始まります。そして、聞くことは、キリストについてのことばを聞くことです」(ローマ 10.17)

 わたしたちは、子どもを育てるとき、口やかましく子どもたちに言います。

「親の言うことを、聞きなさい。」「先生の言うことを聞きなさい」と。

 けれども、「神様のおっしゃることをちゃんと聞きなさい。」とは、全く言わないのではないでしょうか。

 わたくしは、事あるごとに、特に、幼子たちに呼びかけます。

「皆さんの心の中におられるイエス様が、きっと話してくださるから、心の耳で聞いてください」と。 

 先入観のない子どもたちは、それぞれ自分なりに神の語りかけに気づくことができるようです。

 すでに、旧約時代の預言者は、この信仰体験の原点を、次のように強調しています。

 「わたしに聞き従い、善いものを食べよ。

 耳を傾け、わたしのもとに来るがよい。

   聞け、お前たちの魂は生きる。

   わたしの口から出ることばは、

  わたしが望むことを行い、

  わたしが託した使命を成し遂げずに

  むなしく戻ることはない。」(イザヤ 55.2-11)

 日々の生活において、いつも神の語りかけに心の耳をそばだてることが出来るように共に祈りたいと思います。