待降節第2主日・C年(21.12.5)

「主の道を整え その道筋をまっすぐにせよ」

神は自らの慈しみと義をもって栄光の輝きを表す(バルク5.9参照)

   それでは、今日の聖書朗読箇所を、順にふり返ってみましょう。

 まず、第一朗読ですが、旧約聖書続編にあるバルク書5章からの抜粋であります。

 本書は、恐らく紀元70年、すなわちエルサレムの滅亡後に、無名の著者・編集者によって最終的に編集されたと考えられます。この編集者は、エレミヤの秘書バルクではなく、パレスチナの無名のユダヤ人ではないでしょうか。

 ちなみに、この書の内容ですが、次のように要約できます。

「すなわち、神はイスラエルの歴史の主(しゅ)であり、正義と権威と知恵の泉である。また、神は特別な称号すなわち「永遠の方」、「聖なる方」と呼ばれる。そして、罪と罪の罰である苦しみについての教えは、全体にわたって説かれている。特に、メシアに関するはっきりとした言及はないが、メシアという人物へと発展するきっかけが見られる。」と。

 それでは、今日の朗読箇所を、解説してみましょう。

 まず、捕囚の地バビロンから、一千キロ以上離れているエルサレムに向かって呼びかけています。

「エルサレムよ、悲しみと不幸の衣(ころも)を脱ぎ、

 神から与えられる義の衣をまとい、

 頭(かしら)に永遠なる者の栄光の冠(かんむり)をつけよ。

 神は天の下(した)のすべての地に

 お前の輝きを示される。

 お前は神から、『義の平和、敬神(けいしん)の栄光』と呼ばれ、

 その名は永遠に残る。」と。

 ここで言われている「義の衣」は、ヨブ記(29.14参照)でも言われていますが、正義、救い、誉れなど、しばしば比喩的(ひゆてき)に衣服にたとえられます。

 また、「栄光の冠(かんむり)とは、ギリシャ語では「ミトラ」ですが、既婚の女性も未婚の女性も用いた王冠型髪飾りを意味します。

 さらに、「義の平和」とは、エルサレムに満ちた平和は、義によって完成する実りに他なりません。また、「敬神(けいしん)の栄光」エルサレムは、栄光に包まれるのであります。しかも、この栄光とは、神への畏れに従って生活する実りなのです。

 ですから、これらエルサレムの新しい名は、散らされている自分たちの子孫のエルサレムへの帰還によってもたらされる物質的繁栄ばかりでなく、霊的な誠(まこと)の回心によって示されるのであります。

 

キリストの日に備えて清い者となる(フィリピ1.10参照)

  次に、第二朗読ですが、フィリピの信徒への手紙1章からの抜粋であります。

 この手紙は、複数の手紙の集合体と言えましょう。しかも、パウロは、第二回宣教旅行(48-51A.D.)に際して、ギリシャのマケドニア州東部の都市フィリピに教会を設立していますが、恐らくエフェソからこの手紙を、西暦54年頃に書いたのではないでしょうか。

 とにかく、パウロにとってフィリピ教会との関係は、他のどの教会との関係よりも親密なものだったと言えましょう。ですから、この手紙の冒頭で、

「皆さん、わたしは、あなた方一同のために祈る度(たび)に、いつも喜びを持って祈っています。・・・あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなた方一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。」と、情熱を込めてしたためています。

 ここで言われている「キリスト・イエスの日」ですが、10節では「キリストの日」となっているまさにパウロの特徴的な言い方ですが、実は、「主の日」とは、旧約聖書の表現であって、神が人間の歴史に直接介入し、その怒りを表して悪人を罰し正しい人を救って契約に対する神の忠実さを示される最後の裁きの日を指します。ですから、更に勧めています。

「キリストの日に備えて清い者、とがめられることのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実(み)をあふれるほど受けて、神の栄光と誉れをたたえることができるように。」と。

 ここで言われている「義の実」ですが、「神との正しい関わり」であり、文字通り「義(正しさ)に他なりません。

 それは、パウロの神学の中心課題である「義と認められる(義認)」に基づいていると言えましょう。この義認(ぎにん)ですが、旧約聖書でも例えばアブラハムの体験ですが、自分の考え、計画を引っ込めて神のことばに全面的に従う体験(創世記15.6参照)に他なりません。

 

人は皆神の救いを仰ぎ見る(ルカ3.6参照)

  それでは、最後に今日の福音を振り返ってみましょう。

 今日の朗読箇所は、ルカによる福音書の3章からの抜粋であります。しかも場面は、イエスの先駆者(せんくしゃ)ヨハネが、初めて登場し預言者としての最後の使命を果たすところであります。

 まず、ルカは、歴史的事柄の時つまり「皇帝ティベリアスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコンの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」と限定し、場所つまり、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」と断言しています。

 洗礼者ヨハネは、預言的な召命(しょうめい)つまり「神の言葉が荒れ野で降(くだ)った」と、まさに伝統的な導入の際の句であります。

 この「荒れ野」ですが、神の契約の民としてのイスラエルが形成されたことを思い起こさせる場に他なりません。つまり、「荒れ野」は、神へと帰ることを意味しているのです。しかも、ルカにとっての福音は、イスラエルとあらゆる民族への、罪の悔い改めと赦しという贈り物なのです。

 とにかく、洗礼者ヨハネの宣教は、救いの歴史の大きな流れの中で実践されるのであって、まさに神が契約の民の中で働いているという伝統にそったものと言えましょう。ですから、次のようなメシア預言者イザヤの預言(イザヤ40.3-5参照)を、洗礼者ヨハネに適応されるように引用しています。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」と。

 ここでの「荒れ野」は、出エジプト記と、イスラエルの荒れ野の旅を思い起こさせます。しかも「主の道を整える」ことによって救いが始まるのです。

 それは、イエスのお言葉に日々忠実に従って、イエスをお迎えする心の準備をすることではないでしょうか。

 


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