待降節第4主日・C年(21.12.19)

「主がおっしゃったことは必ず実現する」

お前の中からわたしのために イスラエルを治める者が出る(ミカ5.1参照)

   それでは、いつものように今日の聖書朗読箇所を順にふり返ってみましょう。

 まず、第一朗読ですが、預言書ミカ書の5章からの抜粋であります。

 この預言者ミカは、紀元前8世紀のユダ王国が危機に面していたヒゼキア王の治世、同世代の預言者イザヤとならんで活躍し、国の指導者たちが犯した罪のために、避けることのできない禍が降りかかることを、預言しました。

 けれども、今日の箇所では、何とベツレヘムに救い主が誕生するという希望のメッセージを、次のように預言しています。

 「エフラタのベツレヘムよ

 お前はユダの氏族の中でいと小さき者。

 お前の中から、わたしのために

 イスラエルを治める者が出る。

 彼の出生(しゅっしょう)は古く、永遠の昔にさかのぼる。

 ・・・

 そのとき、彼の兄弟の残りの者は

 イスラエルの子らのもとに帰ってくる。

 ・・・

 彼こそ、まさしく平和である。」と。

  まず、エフラタにせよ、ベツレヘムにせよ、いずれもダビデ王の出身地に深い関係のある地域に他なりません。

 ちなみに、メシア預言の原点となっているのが、次のようなイザヤの預言であります。

 「ひとりの嬰児(みどりご)がわたしたちのために生まれた。

 ・・・

 ダビデの王座とその王国に権威は増し

 平和は絶えることがない。」(イザヤ9.5-6参照)と。

 つまり、現実の王たちに失望した人々が、ダビデ王を理想化した救い主メシアを待ち望むようになったのがメシア預言の由来に他なりません。

 ですから、ミカ預言者も、ダビデの町ベツレヘムを、救い主の誕生を預言するイスラエルの約束の地にしているのではないでしょうか。

 しかも、「そのとき、彼の兄弟の残りの者は イスラエルの子らのもとに帰ってくる。」と言うのです。

 ここで言われている「残りの者」ですが、旧約聖書で度々使われるキーワードで、特にイザヤ書(4.2,10.20-23参照)において重要な意味をもつ概念となりました。つまり、さまざまな試練の後、生き残った者たちが神に立ち帰り救われることを意味していると言えましょう。

 そして、「彼こそ、まさしく平和である。」と、断言していますが、「彼こそ平和をもたらす者だ。」とも、訳すことができ、イザヤ書では、「その名は、『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。」(イザヤ9.5d-6a参照)と、強調されています。

  

わたしは来ました 神よ、み心を行うために(ヘブライ10.7参照)

   次に、第二朗読ですが、ヘブライ人への手紙10章からの抜粋であります。

  ちなみにこの手紙の著者ですが、ヘレニズム(ギリシャ文化)世界のユダヤ教の教養を身に着けた無名の人物ではないでしょうか。しかも、この書は、手紙というよりは説教集と言えましょう。また、ローマで、西暦80年から90年にかけて編集されたと考えられます。

 ですから、今日の箇所は、大祭司であるキリストが、この世に来られたときのことを、次のように伝えています。

 「あなたは、生贄(いけにえ)や献(ささ)げ物を望まず、

 むしろ、わたしのために体を備えてくださいました。

 ・・・そこで、わたしは言いました。

 「御覧ください。わたしは来ました。

 ・・・神よ、み心を行うために。」

 この世を救うために、ご自分を生贄(いけにえ)としてささげるために来られたキリストは、御父の御意向を確認します。

「あなたは、焼き尽くす献げ物や 罪を贖(あがな)う生贄(いけにえ)を好まれませんでした。」と。

 まさに、旧約時代の生贄(いけにえ)は動物を殺して、血を地面(じめん)に注ぎ、内臓と脂肪は火で焼いて香りとして天に昇らせ、肉は生贄(いけにえ)を献げた人々が一緒に食べるのは、御父の意にかなわなかったのです。ですから、新約においては、なんとイエスご自身の体を生贄(いけにえ)として献げるために備えてくださったのです。

 ですから、司祭は、ミサにおいて、次のように宣言します。

「主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝を捧げ 裂いて弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される、わたしの体である。』」と。「食事の終わりにおなじように杯(さかずき)を取り、感謝をささげ、弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯(さかずき)、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる 新しい永遠の契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい。』」(第二奉献文)

 

主がおっしゃったことは必ず実現する(ルカ1.45参照)

  最後に今日の福音ですが、福音記者ルカが、母マリアとヨハネの母エリゼベトの感動的な出会いの場面を次のように伝えています。

「マリアの挨拶(あいさつ)をエリサベトが聞いたとき、その胎内(たいない)の子がおどった。エリサべトは聖霊に満たされて、声高(こえたか)らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。・・・主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。』」と。

 エリザベトが、ここでマリアの胎内にイエスが宿ることを知るのは、胎内のヨハネ(喜びおどり)によります。また、イエスをエリサベトの主として信じ、マリアを《わたしの主のお母様》として祝福するのは、まさに聖霊によるのです。そこで、エリザベトは、母マリアに最高の褒め言葉を贈ります。

 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方(かた)は、なんと幸いでしょう。」と。確かに、マリアの幸せの源泉は、まさに彼女のみ言葉に対する信仰に他なりません。わたしたちも、恵みの時待降節をしめくくるに当たって、マリアに倣(なら)「お言葉どおりこの身になりますように。」(同上1.38参照)と、み言葉に対する確固たる信仰を新たにすることが出来るよう共に祈りましょう。

 また、エリザベトのように「日々聖霊に満たされるように」聖霊に対して心を大きく開きましょう。

 

 

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