待降節第1主日・C年(21.11.28)

「心が鈍くならないように注意しなさい」

その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる(エレミヤ33.15参照)

  まず初めに、今日から始まった典礼歴年のC年の待降節について、確認してみましょう。この待降節には、二つの特質があると言えましょう。

 それはまず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、世の終わりつまり終末に於けるキリストの第二の来臨の待望へと心を準備する時でもあります。

 この二つの意義によって、待降節は、まさに愛と喜びに包まれた待望の恵みの時ではないでしょうか。(『典礼暦年と典礼歴に関する一般原則27項』参照)

 それでは、いつものように今日の聖書朗読箇所を順にふり返ってみましょう。

 今日の第一朗読は、エレミヤ書33章からの抜粋であります。

 このエレミヤ書ですが、紀元前627年から585年まで、ユダ王国で活躍した預言者エレミヤが編集したと考えられます。それは、ユダ王国の王ヨシアの治世の第13年から、その王国の最後の王ゼデキヤの治世の第11年に、エルサレムに住む主だった人々がバビロンの近くへ強制移住させられるまでとされています。

 そこで、エレミヤは、次のように荘厳に預言します。

「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。」

 実は、ここで言われている「正義の若枝」ですが、すでに23章の5節で「わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。」と、預言しています。ですから、23章5節では、「ダビデの若枝」すなわち「来るべきメシア」を指し、今日の箇所33章の15節の「正義の若枝」は、神の都エルサレムに当てはめられるべきでしょう。

 いずれにしても、ダビデの王国は、メシアの到来によって確実に救われるという希望の預言にほかなりません。

 

主イエスが来られるとき あなたがたの心を強めてくださるように(一テサロニケ3.13参照)

 次に、第二朗読ですが、新約聖書における最初の文書である、使徒パウロが、第二宣教旅行中(西暦48年から51年)にコリントから西暦50年ごろにテサロニケの教会宛てにしたためた手紙一の3章と4章からの抜粋であります。

 この手紙を書いた目的ですが、キリストの再臨前に亡くなった信徒たちは、キリストの再臨の時まで生き残るパウロたちと比較して何等かの不利益を蒙(こうむ)るのではないか、と言うテサロニケの信徒たちの問いに答えるためだったと言えましょう。そして、パウロは黙示思想的な終末理解を採用しながら、そのような心配はご無用であると説得させたのではないでしょうか。ですから、今日の箇所で、次のように励ましています。

「わたしたちの主イエスが、ご自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前(みまえ)で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。」

 実は、使徒パウロは、同じような励ましを、次のようにもっと具体的に強調しています。

「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たない他の人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。

 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降(くだ)って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」(同上4.13-17a参照)と、なんと素晴らしい光景ではないでしょうか。

 

心が鈍くならないように注意しなさい(ルカ21.34a参照)

 最後に今日の福音ですが、ルカによる福音書21章からの抜粋であります。

 福音記者ルカは、エルサレムの神殿で、主が最後の説教をなさったことを、伝えていますが、まず、神殿崩壊の預言に続いて、終末つまり世の終わりの前の最大の苦しみと、ついでエルサレムの滅亡、そして人の子の再臨とその接近、また最後に「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」と、主が励ましてくださることを強調しています。

 ちなみに、今日の箇所では、最初に主の再臨に先立って必ず起こる天変地異について次のように壮大なスケールで描いています。

「太陽と月と星に徴(しるし)が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る。」と。

 ちなみに、旧約のヨエル書に次のような預言が告げられています。

「天と地に、しるしを示す。

 それは、血と火と煙の柱である。

 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に

 太陽は闇に、月は血に変わる。

 しかし、主のみ名を呼ぶ者は皆、救われる。

 主が言われたように

 シオンの山、エルサレムには逃れ場があり

 主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」(ヨエル3.3-5参照)と。

 このような天変地異は、信仰者にとって、恐怖の時へと突入するのでは決してなく、むしろ、このような天と地における激変こそが、被造物たちの贖(あがな)いの時の到来の徴(しるし)にほかなりません。とにかくイエスは神殿で、聴衆を宇宙の徴の領域から、今や、彼らを最終的に彼ら自身へと、次のように導いて行きます。

「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠(わな)のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表(おもて)のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れ、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」と。

 ちなみに、マタイは、主の再臨こそ最後の審判であることを、次のように荘厳に描いています。

『人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。・・・そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞ってくれたからだ。』(マタイ25.31-36参照)

 

 

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