王であるキリスト・B年(21.11.21)

「真理に属する人は皆わたしの声を聞く」

彼の支配はとこしえに続きその統治は滅びることがない(ダニエル7.13-14参照)

   最初に、本日の王であるキリストの祭日の由来を簡単に振り返って見ましょう。

 1925年、教皇ピオ11世は、ニケア公会議1600年記念祭にちなんで、王であるキリストというテーマを中心にした主題祝祭「王であるキリストの日」を、主日の典礼に導入しました。その荘厳な表題を「われらの主イエス・キリスト、全世界の王の祭日」として毎年、10月の最後の日曜日に祝われていたのですが、典礼歴の新しい原則によって、年間の最後の日曜日に移されました。

 それでは、今日の聖書朗読箇所を、順に振り返ってみましょう。

 まず、第一朗読ですが、先週に続いてダニエル書7章からの抜粋であります。主人公のダニエルですが、紀元前6世紀つまりバビロン捕囚時代の捕囚民の一人で、信仰厚い、賢明なユダヤ人の若者として描かれています。神の霊に満たされているダニエルは、未来に関する夢と幻(まぼろし)を解き明かします。

 因みに、旧約と新約でも描かれている「幻」(英:vision)ですが、黙示文学類型の特徴の一つで、主に預言者に対する神の幻想的なイメージを伴う伝達と言えましょう。ですから、今日の箇所では、次のようないとも荘厳なイメージを、ダニエルが見たと言うのであります。

「夜の幻(まぼろし)をなお見ていると、

 見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り

『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み

   権威(けんい)、威光(いこう)、王権(おうけん)を受けた。

 諸国(しょこく)、諸族(しょぞく)、諸言語(しょげんご)の民は皆、彼に仕え

 彼の支配はとこしえに続き

 その統治は滅びることがない。」と。

 ここで言われている「人の子」ですが、新約の文脈では、「神の国」に密接につながっている概念と言えましょう。また、旧約の文脈では、「人間に似ているもの」を、意味し、また、「神の民」を示す象徴でもあります。

 しかしながら、後(のち)の時代の黙示文學(もくしぶんがく)や新約聖書においては、「人の子」という表現は個人、すなわち「メシア」と指すようになりました。

 ですから、イエスご自身は、ご自分自身を指すのに使っておられます。

 

わたしはアルファでありオメガである(黙示1.8b参照)

    次に、第二朗読ですが、ヨハネの黙示録1章からの抜粋であります。

 ちなみに「黙示」という言葉ですが、「覆いを取り除く」、或いは「明らかにする」などを意味するギリシャ語の動詞から派生した名詞なので、「秘められた真理(しんり)を明らかにすること」と言えましょう。

 ですから、今日の箇所では、黙示文学的タッチで、次のような幻想的なイメージで語られています。

「見よ、その方が雲に乗って来られる。

 すべての人の目が彼を仰ぎ見る、

 ことに、彼は突き刺した者どもは。

 地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。

 然り、アーメン。

   神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。」と。

   まさに、イエスが王として、また、メシアとして栄光に包まれて再び来られることを、今日の第一朗読のダニエルの預言に基づいて宣言しています。

  また、「アルファとオメガ」は、「初めと終わり」と同じ表現で、ここではイエスに対して用いられていると言えましょう。

  ちなみに、これらの言葉は、ギリシャ文字のアルファベットの最初と最後であり、全体あるいは完全性を意味します。

  とにかく、この黙示録が編集されたときの時代背景ですが、恐らく西暦90年代にローマ帝国のドミティアヌス皇帝の迫害にさらされているキリスト教徒に向けられた希望と慰めのメッセージといえましょう。

 ですから、この黙示録全体は、天地創造によって始まった、人類の救いは、世の終末と新天地の出現をもって完成するというまさに壮大なドラマが展開されています。つまり、迫害がますます激しくなる時に、アジア州の諸教会に対して、すぐにでも起こる世の終末と新天地の完成を預言することによって、諸教会を激励したのではないでしょうか。

 

わたしの国はこの世には属してはいない(ヨハネ18.36b 参照)

 最後に、今日の福音ですが、ヨハネによる福音書18章からの抜粋であります。この福音書は、ヨハネ共同体において指導的役割を果たしているヨハネの弟子の一人が編集したと考えられます。

 今日の箇所は、イエスがピラトの前で、ローマ帝国の裁判に掛けられる一場面であります。

 文脈は、第一の場面が、金曜の早朝、総督(そうとく)官邸の外側です。とにかくローマ人たちは、ユダヤ人からイエスを処刑する権限を奪っておきながら、訴えているのはあくまでもユダヤ人たちなのだと決めつけています。

 そして、今日の場面に移ります。とにかく、ピラトは、ユダヤ人たちが、イエスのことを申し立てていたことを以前から知っていたようです。

 しかも、ローマ人に関する限りでは、訴訟はあくまでも政治的な告訴で、つまりいかなる冒涜罪でもなく、まさにローマに対する大逆罪が中心になっていると言えましょう。ですから、イエスとピラトとの対決を次のように伝えています。

「ピラトはイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と言った。イエスはお答えになった。『あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、他の者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。』ピラトは言い返した。『わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。』イエスはお答えになった。『わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。』そこでピラトが、『それでは、やはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しするために生まれ、そのために世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。』」

 このように、イエスは、ご自分の王国が、この世の政治的な国ではないと断言なさいます。しかも、み言葉であるイエスが、人間となられたのは、真理を証しするためであると強調なさいます。

 王であるキリストに、日々お会いし、そのお言葉に聞き従うことが出来るよう、共に祈りましょう。

 

 

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