年間第4主日・B年(24.1.28)

「権威ある者としてお教えになった」

あなたの同胞の中からわたしのような預言者を立てられる(申命記18:15a参照)

 早速、今日の第一朗読ですが、申命記が語るモーセが、民に「主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。」と、宣言した場面であります。

 実は、紀元前13世紀にエジプトの奴隷の家から、奇跡的に脱出したイスラエルの民は、モーセの導きで荒れ野に逃げ込み、シナイ山にたどり着き、そこで神と契約を結び、40年の荒野(あらの)の旅の後(のち)、ようやく乳と蜜の流れる約束の地を、はるかヨルダン川の彼方(かなた)に眺める所に辿り着きました。

  そこで、モーセは、最後の説教を、神の民に向かって切々と語りました。その説教を纏(まと)めたのが申命記にほかなりません。

 とにかく、モーセ自身が、預言者ですが、特に約束の地に入植(にゅうしょく)し、カナンの文化を武力に対決しなければならないので、モーセのような預言者が必要だったというのです。

 ですから、神によって選ばれた預言者たちに「聞き従わなければならない。」のであります。

 実は、これら預言者を、すでに神の山ホレブで、神が次のようにモーセに、約束なさったことに基づくというのです。

 神は言われた。「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしの命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者がいるならば、わたしはその責任を追及する。」と。

 ですから、今日(こんにち)の神の民である教会の預言者たちの使命を、第二バチカン公会議では、その『教会憲章』において次のように宣言しています。

「神の聖なる民は、キリストの果たした預言者としての任務にもあずかる。特に信仰と愛の生活を通してキリストについての生きた証(あかし)を立て、賛美のそなえ物、すなわち、神の名をたたえる唇(くちびる)の果実(かじつ)を神にささげることによって実践する。聖なる方(かた)から塗油(とゆ)を受けた信者の総体は、信仰において誤ることができない。・・・事実、真理の霊によって起こされ、支えられているこの信仰の感覚によって、また聖なる教導(きょうどう)これに忠実に従う者は、もはや人間の言葉ではなく真(まこと)に神のことばを受ける、の指導の下に、神の民は、ひとたび聖徒たちに伝えられた信仰を、傷つけることなく守り、正しい判断によってその信仰を一層深く掘り下げ、それを生活のうちにより完全に具体化していくのである(教会憲章12項)。」と。

 つまり、すべてのキリスト者は、キリストの預言職に洗礼と堅信によって預かっているので、まさに、言葉と行い、そして生き方そのものによってみことばを証しすることができるということにほかなりません。

 

権威ある新しい教えだ(マルコ1:27c参照)

 次に、今日の福音ですが、マルコが伝えるイエスの最初の弟子たちと共に実践された宣教活動の報告に他なりません。

 舞台は、ガリラヤ湖畔(こはん)の町、カファルナウムであります。

「そこでイエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」と。

 ここでいわれている会堂ですが、この建物は、祈りや聖書朗読、律法と預言書の教育が施されていたため信心深い人々の集会所です。

 ですから、イエスは、特に安息日つまり聖なる日である週の最後の日に会堂での礼拝に参加して、かつ教えておられたのです。

 ところが、そのイエスが、「律法学者のようにではなく、権威ある者として教えておられた」というのです。

 とにかく、聖書をよく学んでいる人は、だれでもそこで朗読された聖書の箇所を解釈することができたのです。

 ところが、イエスが、教えられると、まさに権威を持って教えられたので、人々は皆驚いたというのです。

 なぜなら「律法学者のようにではなく」、まさに「権威あるものとして」、つまり、律法学者が自分の考えや、聖書解釈の伝統に則(のっと)った話をするようにではなく、「みことばである」イエスは、まさに聖書の決定的な意味を示すことがおできになったからではないでしょうか。

 それだけではなく、「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男が叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」つまり、その汚れた霊が、イエスに対して、恐れと怒りを感じたので、即座に叫んだというのです。それは、その汚れた霊は、イエスが自分たちの領域(りょういき)にどうどうと侵入して来たことに腹を立てているのです。すなわち、明らかに、イエスが、入って来られたこと自体、まさに悪霊たちを破滅の領域に導く前触れであると、彼らが、気づいたからではないでしょうか。

 とにかく、悪霊は、宣言します。「神の聖者だ。」と。この称号(しょうごう)は、イエスに対するまさに適格(てきかく)なものですが、この時点では、その称号が、公(おおやけ)にされることを、イエス本人は、まだ望んでおられなかったのではないでしょうか。

 そこで、「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。これは一体どういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聞く。」と。

 ですから、当然、「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々(すみずみ)にまで広まった。」というのです。

 ところで、このイエスの驚くべき宣教活動を、今日の私たちの教会が、受けついでいるのです。なぜなら、イエスが、復活させられて天に昇られる直前、次のように命じられたからにほかなりません。

「その後(のち)、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを信じなかったからである。それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣(の)べ伝えなさい。・・・主イエスは、弟子たちに話した後(のち)、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方(いっぽう)、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった(同上16:14-20)。」

 ですから、近年(きんねん)、教皇フランシスコは、出向いて行く教会になるように次のように呼び掛けておられます。

「神のことばには、神が信者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに働いています。アブラハムは、新しい土地へと出て行くようにという呼びかけを受け入れました。モーセも『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』という神の呼びかけを聞いて、民を約束の地に導きました。・・・今日(こんにち)、イエスが命じる『行きなさい』ということばは、教会の宣教の常に新たにされる現場とチャレンジとを示しています。皆が、宣教のこの新しい『出発』に招かれています(「福音の喜び」20項)。」

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2024/st240128.html