年間第3主日(神のことばの主日)・B年(24.1.21)

「回心せよ、そして福音に信頼せよ」

 初めに、本日が「神のことばの主日」と定められた経緯を説明します。

 実は、教皇フランシスコは、2019年9月30日に発布(はっぷ)なさった使徒的書簡によって、年間第3主日を「神のことばの主日」と制定なさいました。

 その書簡において、次のようなお言葉があります。

「復活された主と信者の共同体、そして聖書との関係は、キリスト者としてのわたしたちのアイデンティティにとって本質的なものです。・・・聖書なしには、イエスの宣教の出来事、そしてこの世界におけるイエスの教会の宣教の出来事は理解できません。つまり、聖ヒエロニモがまさに主張したとおりです。『聖書についての無知は、キリストについての無知である。』」

 それでは、いつものように今日(きょう)のみことばを、味わっていましょう。

 

人々は神を信じ断食(だんじき)を呼びかけ粗布(あらぬの)をまとった(ヨナ1:5参照)

  今日の第一朗読ですが、小預言書ヨナ書のニネベの町の全員が、預言者ヨナの説教によって回心したといういとも感動的な出来事を報告しています。

 実は、この預言者ヨナですが、「立って、大いなる町ニネベに行け。そしてその町に向かい、彼らの悪がわたしの前に届いていると告げよ。」という神のことばに従わず、タルシシュに向かう船で、主の前から逃げたというのです。

 けれどもその船が、大暴風で難破(なんぱ)しそうになったとき、だれのせいでその災難(さいなん)がふりかかったのか、くじ引きし、なんとそのくじがヨナに当たったというのです。

 そこで、ヨナは、正直に神の前から逃げて来たことを告白し、「わたしをかかえて、海に投げこんで下さい。そうすれば、あなたがたの周囲の海は鎮まるでしょう。わたしのせいで、この大暴風があなたがたを襲ったことが、私にはわかっているからです。」と、正直に告白(こくはく)したので、「彼らはヨナをかかえ、海に投げ込んだ。海の怒りはおさまり、鎮まった。」というのです。

 そこで、「人々は主を非常に恐れた。そしてかれらは主に生け贄をささげ、誓いを立てた。」そうです。

 一方、主は、海に投げ込まれたヨナに、「大きな魚を備え、ヨナを吞(の)み込ませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」そこで、ヨナは、主に向かって心からの回心の祈りをささげたので、「主が魚に命じると、魚はヨナを陸地(りくち)に吐き出した。」というのです。そこで、今日の朗読箇所に移ります。

「主のことばがヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語ることばを告げよ。』・・・ヨナは、まず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。『あと四十日すれば、ニネベの都(みやこ)は滅びる。』すると、ニネベの人々は神を信じ、断食(だんじき)を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布(あらぬの)をまとった。神は彼らの業(わざ)、彼らが悪の道を離れたことをご覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。」というのです。

 

わたしについて来なさい(マルコ1:17参照)

  次に、今日の福音ですが、マルコが伝えるイエスの最初の弟子たちの感動的な召命(しょうめい)の場面に他なりません。

 マルコは、まず、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、」と、文脈を確認します。実は、洗礼者ヨハネが、捕らえられた経緯(いきさつ)は、6章で次のように説明されています。

「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳に入った。人々は言っていた。『洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。・・・』実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕えさせ、牢につないでいた(同上6:14-17)。」というのです。

 とにかく、イエスにとって洗礼者ヨハネが捕らえられたということは、いよいよ彼の出番(でばん)だという決意のきっかけなったといえましょう。

 そこで、イエスの福音宣教の第一声(だいいっせい)は、「時は満ち、神の国は近づいた。回心して福音に信頼しなさい。」に他なりません。

 まず、ここで言われている「時は満ち」ですが、今の時こそ決定的な時なのだというパンチの効いた宣言と言えましょう。

 また、「神の国は近づいた。」ですが、すでに「神の国は来ている」または、「神の国は既に始まった」とも受け止めることができるのではないでしょうか。いずれにしても「神の王的支配が現実のこととなった」という宣言にほかなりません。

 さらに「回心して福音に信頼しなさい」ですが、福音を対象にするのではなく、むしろ、福音の現実の中に自分を委ねることではないでしょうか。

 しかも、「回心」ですが、伝統的には「改心:悔い改める」などと訳されてきたのですが、ギリシャ語の「metanoia は、思いを変える」ことであり、今や、神中心に根本的姿勢転換が必要ということなのです。ですから、近年、カトリック内では、改心ではなく回心という当て字を使うようになりました。

 とにかく、回心つまりイエスとの出会いによって、自分中心の生き方から神中心の生き方に切り替える体験と言えましょう。従って、イエスの弟子になるためには、死に至るその時まで、まさに、日々の生き方の根本的切り換えが必要なのです。

 次に、「福音を信じなさい」となっているのを、あえて「福音に信頼せよ」と、言い換えましたが、それは、ギリシャ語の原文に従った訳だからであり、あえて説明を加えるならば、福音に信頼して自分自身を委ねよという意味ではないでしょうか。

 では、マルコの文脈において、そもそも「福音」とは何かという根本的な問いに直面(ちょくめん)するのですが、マルコによる福音の冒頭(ぼうとう)は、「神の子イエス・キリストの福音の初め。」となっていますので、それを「神の子イエス・キリストこそ福音」と読み替えることによって、「福音」の説明にすることができるのではないでしょうか。

 次に、最初の弟子たちの召命に場面を確認してみましょう。

「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンドレが湖で網(あみ)を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。」と。

 つまり、イエスが、最初に彼らを「御覧になった」のです。ですから、彼らは、自分たちが見られていることには、全く気付いていなかったのです。

 ですから、つづけて、「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と声をかけた。」というのです。

 このように、イエスの一方的な行動に、彼らが驚くことなく、続けて言われた「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という端的な呼びかけを聞き、「二人はすぐに網を捨てて従った。」というのです。

 どう考えても、この二人に弟子の行動は、あたかも魔法にかけられたかのように、いとも素直(すなお)にイエスに従ったのではないかと思わざるを得ません。

 しかも、同じように「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると、すぐに彼らを呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に船に残して、イエスの後について行った。」というのです。

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2024/st240121.html