「来なさいそうすれば分かる」
どうぞお話ください、僕(しもべ)は聞いております(サムエル記下3:10e)
早速、今日の第一朗読ですが、最後の師士(しし)サムエルについて書かれたとされるサムエル記上の少年サムエルの、みことばを聞くという召命を受けた場面にほかなりません。
因(ちな)みに師士(しし)ですが、紀元前12世紀から11世紀にかけて、イスラエルは、定住先(ていじゅうさき)のカナン文化と武力に対決しなければならなかった時代です。
師士(しし)とは、王制(おうせい)が始まる前のイスラエルの指導者としてカリスマ的軍事的リーダーであり、また、平和な時には正当な裁きを行うことのできる人物にほかなりません。
実は、このサムエルが、生まれる前の、彼の母親ハンナについて次のような事情を説明しなければなりません。
つまり、当時一夫多妻(いっぷたさい)が認められていたので、彼の母ハンナと、子宝に恵まれたもう一人の妻ペニンナとの女同士の難しい関係、つまり子どものいないハンナは、ペンニンナにひどくいびられており、その苦しみを、祈りのなかで注ぎだしていたときに、祭司エリに見つかり、事情を話したところ、祭司エリは、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と、宣言した経緯(いきさつ)があるのです。
しかも、母ハンナは、「男の子を授けてくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません(同上1:11c)。」と、誓ったので祭司エリのもとに、サムエル少年を、託したのです。
そこで、サムエルが、12歳になったときです。今日の箇所にあるみことばを聞くという素晴らしい初めての体験があったというのです。
とにかく、子どもの時から、日々、みことばを聞くという教育こそ、子どもの家庭における信仰教育の原点にほかなりません。実は、この家庭におけるみことば教育は、すでにモーゼが、次のように命じています。
「聞け、イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
今日(きょう)わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい(申命記6:4-7)」と。
ですから、今日(こんにち)、情報の洪水にさらされている子ども、若者たちにまさに徹底したみことば教育は、決して疎(おろそ)かにはできません。
体は聖霊が宿ってくださる神殿である(一コリント6:19b参照)
次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロが、第二宣教旅行中に創立した教会ですが、なんと派閥ができまさに分裂(ぶんれつ)騒ぎまで起こしてしまったというのです。
そこで、パウロは、実際に行って直接その深刻な問題解決に取り組むことができなかったので、せめて手紙によってしたためたのです。
しかも、今日の箇所は、キリスト者の日々の生き方についての具体的な教訓についての箇所といえましょう。
ですから、次のような実践的な指導をしています。
「皆さん、体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。」
そして、さらに突っ込んだ説明に発展させます。
「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。」と念を押しています。
ここで言われている「キリストの体」とは、12章の教会共同体を指す「あなたがたはキリストのからだであり(12.27)」を、連想させます。
さらに、忠告は具体的になります。
「主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外(そと)にあります。しかし、みだらな行いする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。」と。
そして、核心(かくしん)に触れます。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価(だいか)を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」と。
わたしたちはメシアに出会った(ヨハネ1:41参照)
最後になりましたが、今日の福音ですが、ヨハネが伝えるイエスの最初の弟子たちの、いとも感動的な召命の場面を伝えています。
まず、初めに洗礼者ヨハネと、彼の二人の弟子たちがいたところに、なんとイエスが来られたというのです。
ですから、ヨハネは、思わず叫びます。「見よ、神の小羊だ」と。この称号はおそらく当時の文献にもあるように、メシアが神の小羊と呼ばれ、この世の罪を取り除くと理解されていたからでしょう。
とにかく、その称号を聞いたこの二人の弟子が、早速、イエスについて行ったというのです。
そこで、「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』」と、早速、確認なさいます。
ですから、即答(そくとう)の出来ない弟子たちは、とっさに、「ラビどこに泊まっておられるのですか」という質問に切り替えます。ですから、イエスは、優しく「来なさい。そうすれば分かる」と、彼らを誘います。
「そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるのかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。」と、なんと時間まではっきりと記憶に止(とど)めたというのです。ところで、「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人にうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、『わたしたちはメシアに出会った』と言った。そして、シモンをイエスのところへ連れて行った。イエスは彼を見つめて,『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにする』と言われた。」
なんと摂理的な出会いでしょう。とにかく、兄弟に導かれてイエスのもとを訪ねるという単純な行動に神のご計画が秘められていたのでしょうか。
とにかく、今日の福音は、最初の弟子たちの召命物語ですが、実は、わたしたちもまずキリスト者として使徒職にあずかるという召命を受けていのではありませんか。それは、すべてのキリスト者が使徒職に参加するという最も基本的な召命と言えましょう。この使徒職へすべてのキリスト者が招かれていることを、第二バチカン公会議は、次のように宣言しています。
「父なる神の栄光のために、キリストの王国を全地に広めて、すべての人をあがないによる救いにあずからせ、その人々をとおして全世界を実際にキリストへと秩序づけるために、教会が誕生した。この目的に向けられた神秘体の活動は、すべて『使徒職』と呼ばれるのであって、教会は、この使徒職を全構成員によって、それぞれ異なった方法で実行する。事実、キリスト者としての召命は、その本性上、使徒職への召命である(「信徒使徒職教令」2項)。」と。
皆さん、わたしたちはミサに参加するたびに、その終わりに使徒職の実践のためにイエスによって派遣されるのです。
この使命を、忠実に実践できるように共に祈りましょう。