「幼子を拝み贈り物をささげた」
主の栄誉が宣(の)べ伝えられる(イザヤ60:6参照)
早速、今日の第一朗読ですが、第三イザヤが,紀元前6世紀ごろ、バビロンへ強制移住させられていたイスラエルの民が、半世紀ぶりに故国に戻った時に仰ぎ見る、なんと神の栄光の輝きを預言したというのです。しかも、その神の栄光は異邦人にまで及ぶのであります。次のように預言しています。
「主の栄光はあなたの上に現れる。
国々はあなたを照らす光に向かい
王たちは射し出(い)でるその輝きに向かって歩む。
目を上げて、見渡すがよい。
みな集(つど)い、あなたのもとに来る。・・・
らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだが
あなたのもとに押し寄せる。
シェバの人々はみな、黄金と乳香を携(たずさ)えて来る。
こうして、主の栄誉が宣(の)べ伝えられる。」と。
当時、らくだは荷を運ぶ家畜として東の国々からの富をもたらしていました。また、「黄金と乳香」は、最高級の贈り物でした。
とにかく、神の救いの計画は、罪のため戦勝国に強制移住という最大の試練を体験した後(のち)には、なんと異邦人にまで及ぶ神の栄光が輝き出されるというのです。
異邦人が同じ約束にあずかる者となる(エフェソ3:6参照)
次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロが、エフェソの教会に宛ててしたためた、神の救いは、異邦人にまで及ぶという壮大な計画を、大胆に宣言した内容といえましょう。
「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や”霊“によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示(けいじ)されました。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属するもの、同じ約束にあずかる者となるということです。」と。
このパウロの宣言どおり、最初はユダ人と、国外に離散(りさん)したユダヤ人を対象に福音が宣べ伝えられたのですが、使徒パウロが異邦人の使徒に選ばれたことを、きっかけに福音は小アジア、そしてギリシャとローマの果てまで宣教され、それぞれの地方に教会が設立されました。
このように教会は、本来的に福音を全世界の人々に伝える使命を、主からいただいています。しかも、この福音を伝える使命は、宣教師たちだけでなく、まさにすべてのキリスト者の生涯かけて全うする召命にほかなりません。
ですから、近年(きんねん)、教皇フランシスコは、次のような勧めを強調なさっておられます。
「神の言葉には、神が信者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現れています。アブラハムは、新しい土地へと出発するという召命を受け入れました。モーセも『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』という神の呼びかけを聞いて、民を約束の地に導きました。・・・今日(こんにち)、イエスの命じる『行きなさい』という命令は、教会の宣教のつねに新たにされる現場とチャレンジを示しています。皆が、宣教のこの新しい『出発』に呼ばれています。すべてのキリスト者、またすべての共同体は、主の求めておられる道を識別しなければなりませんが、わたしたち皆が、その召命に答えるよう呼ばれています。つまり、自分にとって居心地のいい場所から出て行って、福音の光を必要としている隅(すみ)に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気をもつよう呼ばれています(『福音の喜び』20項)。」と。
東方でその星を見たので拝みに来ました(マタイ2:26参照)
最後に、今日の福音ですが、マタイが伝える主の公現の場面といえましょう。
まず、登場人物ですが、早速、主人公の東方の学者たちです。伝説によれば、名前はバルタザール、メルキオール、カスパールの三人で、1164年7月23日に、なんと彼らのものとされる聖遺物(せいいぶつ)をミラノからケルンに移したというのです。
これらの聖遺物は、ドイツのケルンの大聖堂の内陣に今日(こんにち)にいたるまで安置され、崇敬(すうけい)に毎日、大勢の巡礼者が訪れています。とにかく、公現の祭日が、1月6日に定められたことによって、ヨーロッパでは、これら聖人の祭りを祝う特徴をおびるようになったということです。
ところで、今日の場面では、彼らは、まずヘロデ王の宮殿を訪れ、早速ヘロデ王に尋ねます。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。ところが、「これを聞いて、ヘロデは不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」
ここで、ヘロデ王がなぜ不安を抱いたのかは、分かりませんが、王としての地位が、新しい王の誕生によってゆらいでしまうのではないか、いずれにしても現状維持ができなくなるという不安なのでしょうか。あるいは、フランシスコ会訳は、「うろたえた」になっていますので、単純な心理的不安なのかもしれません。
しかも、エルサレムの人々までが、不安をいだいたというのは、やはり新しい王の誕生によって、自分たちの立場も変えられてしまうという単純な不安感なのでしょうか。
私たちも、同じような不安をいだいてしまうのではないか、自問自答することができるのではないでしょうか。
とにかく、ヘロデ王は、早速、「民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。」と、言うのです。
そこで、「彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。〈ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決して一番小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。〉』」と。
これは、ミカ書5章1節の引用であり、メシアとしての理想の王は、ダビデ王の再来であるとの預言に他なりません。
ここでヘロデは、新しく生まれたメシアを、亡き者にする決意のもと、占星術の学者に、命じます。
「行って、その子のことを詳しく調べ、見つけたら知らせてくれ。わたしも行って拝もう。」と。
「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。・・・彼らが、家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を送り物と捧げた。」のであります。
私たちも、生まれたばかりのイエスを拝み、自分自身を捧げましょう。