聖家族・B年(23.12.31)

「幼子はたくましく育ち」

 

アブラムは主を信じた、主はそれを彼の義と認められた(創世15:6参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、まさにアブラハム物語の核心に触れる箇所といえましょう。すなわち、アブラハムの信仰について最も古い伝承であるだけでなく、内容的に最も重要な箇所にほかなりません。

 まず、「その日、主の言葉が幻(まぼろし)の中でアブラムに臨んだ。」と、神の語り掛けが、唐突(とうとつ)にも「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは大きいであろう。」と。

 ここで言われている「幻の中でアブラムに臨んだ。」ですが、あたかも神が預言者に対して幻想的なイメージで語り掛けたようにというのです。

 しかも、「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。」と、神の約束がなかなか成就しないので、焦りと不安に恐れおののいていたのでしょう。

 それにも拘(かかわ)らず、「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と、実は、すでに、神は「見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう(同上13:15-16)。」と、すでに約束なさったのです。

 ですから、アブラムは、あからさまに「わが神よ、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」と、あからさまに反抗(はんこう)します。

 さらに、主張します。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕(しもべ)が跡(あと)を継ぐことになっています。」と。

 その時、再び神が優しく語り掛けます。

「その者があなたの跡(あと)を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」と。

 つまり、アブラムが、決めたエリエゼルではなく、アブラムの血を引く実の子が、跡をつぐのだと強調なさいます。

 それから、主なる神は、きわめて象徴的な行動をとられます。

「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』」と。

 まさに、アブラハムの心の姿勢転換を、命じます。

「自分の殻に閉じ籠っていた状態から脱皮して、神を仰ぎ見なさい。そして、満天の星空を見よ。降るような星は、数え切れないであろう。お前の子孫も、数えきれないほど大勢になるのだ。」と。

 そこで、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」と。

 つまり、彼は新しい生命への神の招きを聞き入れ、その招きを受け容れることによって、改めて神とのあるべき関係に入ったというのです。

 とにかく、神の救いは、家族を通して実現していくことが、信仰の父と呼ばれるアブラハムの家族で、明らかになります。

 ですから、私たちのそれぞれの家族が、神の救いが実現していく基本的な場といえましょう。だだ、アブラハムの家族も決して模範的な家族であったのではなく、愛と憎しみが交差する不完全な家族であっても、救いの道具になることができるということではないでしょうか。

 ですからアブラハムの孫ヤコブの家族においても深刻な問題をかかえていたにもかかわらす、ひ孫ヨゼフの次のような宣言に注目すべきではないでしょうか。

「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日(こんにち)のようにしてくださったのです(創世50:20)」と。

 

異邦人を照らす光(ルカ22:32参照)

  次に、今日の福音ですが、ルカが伝える母マリアの清めの期間(出産後40日)が過ぎた時の神殿での主の奉献の場面です。

「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。・・・シメオンが”霊“に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりに生贄(いけにえ)をささげようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

 『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を 安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

 これは万民(ばんみん)のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民(たみ)イスラエルの誉(ほまれ)です。」と。

 ここで言われている「あなたの救い」ですが、メシアを指しています。

 また、「万民のために整えてくださった」とは、イエスの来臨によって初めて救いの業は、ヘブライ人だけでなく異邦人にも及ぶようになるというのです。

 さらに、「啓示の光」ですが、イエスの救いは、イザヤの預言によれば「光」と考えられています。

 また、「イスラエルの誉(ほまれ)ですが、メシアは、イスラエルの民のうちに生まれ、彼らが旧約時代から長い間、待ち望んでいたことが実現するのです。

 勿論、「父と母は、幼子についてこのようにいわれたことに驚いていた。」というのです。

 次に、「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣(つるぎ)で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。』」と。

 ここでいわれている「しるし」ですが、言うまでもなくメシアのことにほかなりません。つまり、人々はイエスをメシアと認めても、彼に反抗するのです。この反抗は、イエスが十字架にくぎづけられるとき、頂点に達します。

 また、「剣で心を刺し貫かれます」は、まさに、比喩的(ひゆてき)表現で、苦しみに満たされることにほかなりません。

 さらに、「多くの人の心にある思いがあらわにされる」ですが、メシアの到来は、光を受け入れるか、闇を好むかのいずれかを決定しなければならない時なのです。

 つまり、メシアの来臨(らいりん)の本来の目的は、救いをすべての人々に与えることですが、ある人にとっては滅びの原因ともなり得るということではないでしょうか。

 ですから、私たちも、日々、救い主であるイエスに忠実に聞き従い、決して逆らうことのないように心がけることです。

 イエスは、弟子たちに命じられました。「わたしの後(あと)に従いたい者は、自分を否定し、自分の十字架を担(にな)って、わたしに従いなさい(マタイ16:24)。」

 けれども弟子たちでさえ、「物分かりが悪く、預言者たちが語ったことのすべてを信じるには、心の鈍い者たち(ルカ24:25)」でした。

 ですから、まさに、日々回心し、つまり考え方やものの見方を根本的に切りかえていく必要があるのではないでしょうか。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st231231.html