主の降誕・日中のミサ(23.12.25)

「ことばは人間となりわれわれの間に 住むようになられた」

 

み言葉は人間となり、われわれの間に住むようになった(ヨハネ1:14参照)

  主の降誕の日中のミサのテーマは、「人となられたみことば」にほかなりません。

 実は、この偉大な神秘は、すでに初代教会では讃美歌として歌われていたとの事です。

 それでは、今日の福音のテキストに従って、少し詳しく見てみましょう。

 ちなみに、共同訳のテキストではなく、フランシスコ会研究所訳を用います。

 賛歌1 神であるみ言葉

  初めにみ言葉があった。

 み言葉は神とともにあった。

 み言葉は神であった。

 み言葉は始めに神とともにあった。

 すべてのものは、み言葉によってできた。

 できたもので、み言葉によらずにできたものは、

 何一つ(なにひとつ)なかった。

 み言葉の内に命があった。

 この命は人間の光であった。

 光は闇の中で輝いている。

 闇は光に打ち勝たなかった。

 「初めに」という出だしは、創世記でも使われているので、み言葉が創造主としてのみ言葉の地位を示しているといえましょう。

 しかも、万物が造られた時、すでに存在していたみ言葉は、神の独り子であり、全被造物が存在し続けるための生命力を担っているのです。このことを、パウロは、次のように宣言しています。

「御子(おんこ)は目に見えない神の似姿であり、すべての造られたものに先立って生まれて方。・・・すべてのものは御子(おんこ)のうちに造られたからであり、すべてのものは御子(おんこ)を通して、御子(おんこ)へ向けて造られたのである。御子(おんこ)はすべてに先立つ方、すべてのものは御子(おんこ)の内にあってこそ存続できる(コロサイ1:15-17)と。「闇は光に打ち勝たなかった。」の別訳は、「闇は光を受け入れなかった。」

 とにかく、旧約聖書においては、「闇」「死」との関連でもちいられています。

 また、光であるみ言葉は、キリストを受け入れない人々の中でも、輝いているというので、闇はキリストに打ち勝てなかったと言えましょう。

 賛歌2人間となったみ言葉

 み言葉はこの世にあった。

 この世はみ言葉によってできたが、

 この世はみ言葉を認めなかった。

 み言葉は自分の民のところに来たが、

 民は受け入れなかった。

 しかし、み言葉を受け入れた者、

 その名を信じる者には、

 神の子となる資格を与えた。

 彼らは、血によってではなく、

 人間の意志によってでもなく、

 男の意志によってでもなく、

 神によって生まれた。

 み言葉は人間となり、われわれの間に住むようになった。

 われわれはこの方の栄光を見た。

 父のもとから来た独り子(ご)としての栄光である。

 独り子(ご)は恵と真理に満ちていた。」

 まさに、今日の福音の核心に触れる「み言葉は人間となり、われわれの間に住むようになった。」ですが、神学用語としては、「受肉(じゅにく)といいます。ここで言われている「人間」(共同訳では「肉」)は、直訳では「肉」であり、もろい死すべき人間を意味します。

「住むようになった。」は、直訳では、「天幕(てんまく)をはった。」となり、旧約時代に神がイスラエルの民に幕屋を建てさせ、そこに住んだことを、思い起こさせます。また、「栄光」は、イエスの死と復活を指しているといえましょう。

 

いかに美しいことか 良い知らせと伝える者の足(イザヤ52:7a参照)

  次に、今日の第一朗読ですが、紀元前6世紀の50年にわたるイスラエルの民のバビロンへの強制移住させられていた時代に活躍した便宜上第二イザヤと呼ばれる預言者は、エルサレムに向かって走る伝令の足を山の上に見つけ、エルサレムの見張りの人の喜びが、次のように歌われています。

「いかに美しいことか

 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。

 彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え

 救いを告げ

 あなたの神は王となられた、と

    シオンに向かって呼ばわる。

 その声に、あなたの見張りは声をあげ

 皆共に、喜び歌う。

 彼らは目の当たりに見る

    主がシオンに帰られるのを。」

 このように、伝令が近づいて来るにつれ、彼が運ぶメッセージの内容が一層明確になります。

「神は王になられた」という叫びは、神の支配の開始を告げる叫びにほかなりません。たった一人の伝令が運ぶ喜びは複数の見張りの人につたわっていきます。彼らはその喜びをさらに広いエルサレムの廃墟(はいきょ)に伝えます。

 

御子によってわたしたちに語られました(ヘブライ1:2参照)

 つぎに、使徒パウロの教えを受け、その神学に培われた弟子のひとりが、編集したとされるヘブライ人への手紙の冒頭(ぼうとう)で、次のような宣言が伝えられています。

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られましたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」と。

 ここで言われている「かつて」は、旧約時代のことで、キリストの復活によって始められた「この終わりの時代」に対応しています。

 また、「多くの形で、また多くのしかたで」とは、まさに神の啓示が一度に全体的に示されたのではなく、時代時代に、部分的に示され完成されたことを示しています。

 また、「この終わりの時代」つまり、キリストの出現の時に、御子(おんこ)によって決定的につまり、人となって語られたことに、ここから感謝しましょう。

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st231225day.html