主の降誕・夜半のミサ(23.12.24)

「地には平和、御心(みこころ)に適(かな)う人にあれ」

 今宵(こよい)、全世界の善意の人々と共に主の降誕を祝うために、早速、今日の聖書朗読箇所を順に紐解き、降誕祭の聖書的意義を、ご一緒に探ってみましょう。

 まず、第一朗読ですが、第一イザヤが伝える代表的メシア預言と言えましょう。

 ちなみに、このメシア預言とは、遠き将来、全被造物を救うためにこの世に来られる救い主(ヘブライ語ではメシア、ギリシャ語ではクリストス、日本語ではキリスト)についての預言にほかなりません。

 そこで、今日の第一朗読箇所ですが、便宜上第一イザヤと呼ばれる預言者が、紀元前728年に行われたヒゼキア王(728-698BC)の即位式で宣言した祝いのことばで、まず、北イスラエルの失われた地域の回復を次のように預言しています。

 すなわち、今、ヒゼキアが若年で即位するのですが、北イスラエルの失われた地域が、取り戻されるというのです。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、

 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

 あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり

 人々は御前(みまえ)に喜び祝った。

 刈り入れの時を祝うように

 戦利品(せんりひん)を分け合って楽しむように。」と。

 当時、オリエント世界で、力のあったアッシリアという国も神によって裁かれ、だから、アッシリアによって占領された地域の人々の上に、再び光が輝き、彼らは勝利品を、分け合うように喜びに満たされるという、政治情勢の大転換が、まさに新しい王の即位によって実現するというのです。

 また、「彼らの負う軛(くびき)、肩を打つ杖、虐(しいた)げる者の鞭(むち)

 あなたはミディアンの日にように折ってくださった。」と。

 つまり、士師(しし)ギデオンが侵入してきたミディアン人を打ち破り、イスラエルを救ったように、神の力によるというのです。さらに、預言は、メシアの誕生という確心に迫ります。

「ひとりの嬰児(みどりご)がわたしたちのために生まれた。

 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。

 権威が彼の肩にある。

 その名は、『驚くべき指導者、力ある神

 永遠の父、平和の君と唱えられる。

 ダビデの王座とその王国に権威は増し

 平和は絶えることがない。」

 ちなみに、「ひとりの嬰児(みどりご)がわたしたちのために生まれた。」とは、詩編2編7節b「お前はわたしの子 今日(きょう)、わたしはお前を産んだ。」に見られるように、まさに王の即位を表しています。

 また、5節で「わたしたちのために」というくだりが二回くりかえされているのは、おそらく7章14節の「その名をインマヌエル(神がわれらと共におられる)」と、対応して、この王が、まさにイザヤとその弟子たちが待望した王であることを示しているといえましょう。

 そして、特に「ダビデの王座とその権威は増し、平和は絶えることがない。」というくだりで、明らかにメシア的支配の理想が強調されています。ですから、教会は、伝統的にこの箇所をイエスの誕生の預言であると解釈して来たのではないでしょうか。

 

マリアは月が満ちて初めての子を産み 布にくるみ飼い葉桶に寝かせた(ルカ2:6-7参照)

  次に、今日の福音ですが、ルカが伝える主の降誕の感動的な場面にほかなりません。

 まず、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令(ちょくれい)が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。」と、まさにイエスの誕生を、その時代の政治の枠組みに挿入することによって、イエスをローマ帝国の舞台におくという神学的説明にほかなりません。

  従って、当時の世界最大の強者であるローマ皇帝は、全世界に勅令を発することによって、結果的に神のご計画に寄与(きよ)することになり、また、この皇帝も、「全世界の救い主」と呼ばれ、人々から「アウグストゥスの平和」とも言われていたのですが、事実、彼の治世下(ちせいか)にうまれた幼子イエスこそ、真(まこと)の平和の救い主であると暗示されたと言えましょう。

 ちなみに、ベツレヘムは、メシア預言の原点となったダビデ王の故郷であり、メシアが、「エッサイの株からひとつの若枝が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる(イザヤ11:1-2a)」という預言どおり、ダビデ王の子孫からメシアが誕生しなければならないのです。

 ですから、「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布に包(くる)んで飼い葉桶に寝かせた。」というのです。

 続いて、羊飼いたちに天使がメシアの誕生を最初に知らせるという場面に変わります。

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が回りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなた方は、布に包(くる)まって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」と。この長いくだりは、旧約の出現告知形式をふまえています。

 ちなみに、ここで言われている「民全体」は、まずイスラエル民族を指していますが、11節の「今日ダビデの町で」が、ローマ皇帝アウグストゥスの称号と対値(たいち)されているので、民全体は、排他的(はいたてき)にユダヤ民族に限定されません。

 そこで、11節の宣言が誕生物語の中心になり、「今日(きょう)は、終末の救いの実現を表しています。また、「救い主」は、ギリシャの神々、さらに皇帝アウグストゥスと対比させ、イエスこそ真の「救い主」であるという宣言にほかなりません。

 続いて、天の大群が、神を賛美します。

「いと高きところには栄光、神にあれ、

  地には平和、御心(みこころ)に適う人にあれ。」

 すでに、今日の第一朗読で、『平和の君』と唱えられると、また、「平和は絶えることがない。」というメシア預言を確認しました。

 飼い葉桶に寝かされている「乳飲み子(ちのみご)こそ、この地上に真(まこと)の平和をもたらすお方に違いありません。しかもその平和の与え方は、パウロが次のように宣言しています。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造りあげて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠くはなれているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました(エフェソ2:14-17)。」と。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st231225eve.html