待降節第4主日・B年(23.12.24)

「お言葉どおりこの身に成りますように」

あなたの王国はとこしえに難く据えられる(サムエル下7:16参照)

  本日、いよいよ待降節の最後の週となり、主の降誕祭を迎える準備を総括する恵みの時をいただくと言えましょう。

 では、早速、今日の第一朗読を紐(ひも)どいて初めてのメシア預言を振り返ってみましょう。

 時代は、イスラエルが、部族連合の時代を、ようやく終えて待望の王国時代が始まり、二代目の偉大な王ダビデの治世です。

 因みに、王制が成立する前は、士師(しし)と呼ばれる指導者たちが、イスラエルの民の部族連合を導いていましたが、民の強い願いによってとうとう王が支配する制度が成立したといえましょう。つまり、王国国家の誕生です。

 ところで、この最後の士師サムエルは、編集者としてサムエル記上下という歴史書を編纂(へんさん)しています。今日の第一朗読は、このサムエル記下7章からの抜粋であります。

 しかも、最初のメシア預言といえましょう。ちなみに、メシア預言とは、まさにダビデ王朝の時代に、今日(きょう)の第一朗読が示しているようにダビデの家系から、イスラエルの救い主(メシア)が出るという待望にほかなりません。

 それは、今日の第一朗読において、預言者ナタンが、直接ダビデ王に向かって次のように預言しています。

「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国をゆるぎないものとする。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」と。

 ここで注目すべきは、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子になる。」という宣言ですが、ダビデの血を引く王にたいして主なる神が親子関係をもつことを意味していると言えましょう。

 ですから、ルカは、次のように説明しています。

「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降り、天から声がした、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者』(ルカ3:22)」と。

 つまり、ダビデの血を引く王たちに対して、主なる神は人間の父親がするように、杖をもってその誤りを正し、ダビデの家系存続を守るという約束にほかなりません。

 このように、メシア(油注がれた者)である王は、やがて終末的理想の王をしめすようになり、新約ではギリシャ語でクリストスと言われるようになるのです。

 

生まれる子は聖なる者、神の子とよばれる(ルカ1:35c参照)

  次に、今日の福音ですが、待降節をしめくくるにふさわしい天使ガブリエルの乙女マリアへのお告げの場面にほかなりせん。

 ルカは、その時の様子を、すでに旧約時代に確立した文学形式、つまり、神またはその使いの出現形式、その中でも特に誕生告知の形式によって報告していると言えましょう。

 まず、天使ガブリエルの出現からこのドラマははじまります。

「その時、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。」

 続いて、マリアの人柄がつぎのように説明されます。

「ダビデ家のヨセフという人の許嫁(いいなずけ)であるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。」

 つづいて、天使が出現し最初の挨拶を次のようにします。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と。

 このように、天使が直接村娘に挨拶するのは、特別といえましょう。

 ここで言われている、「おめでとう」というのは、普通の挨拶はなく「喜びの挨拶」と言えましょう。しかも、この文脈では、マリアのこれからの大切な使命を暗示しているのではないでしょうか。

 ところで、「マリアはこの言葉に戸惑い,いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」とは、いわゆる乙女のショックなどと心理的に解釈すべきではなく、天使の出現が神からのものであることを示す文学的技巧といえましょう。

 ですから、続いてこの恵みの驚くべき内容が天使によって詳しく次のように説明されます。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」

 さらにイエスの偉大さについて、次のように説明されます。

「この子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」と。

 ここで言われている「いと高き子」ですが、単に子という身分、地位(王位)だけでなく、他を治め支配する行為者としての子にほかなりません。ちなみに、この支配は、特に弱者を「支え」、心を「配る」支配にほかなりません。

 続いてマリアの反論ですが、あたえられた使命が、人間の側からでなく、神の力によることを示すスタイルといえましょう。

「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』」と。

 ここで言われている「男の人を知りません」とは、男の人との関係はまだありませんという意味といえます。

 だから、天使は、「聖霊があなたの降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」と、確認します。

 それに対して、マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」と、全身全霊をこめて神のみことばに従いました。

 このマリアの神のみ言葉にたいするゆるぎない信仰は、マリアの生き方の土台となったのではないでしょうか。

 ちなみに、早速、親類のエリザベトを訪問したとき、「マリアはエリザベトに挨拶した。エリザベトがマリアの挨拶を聞くと、胎内の子が躍り、エリザベトは聖霊に満たされて、声たからかに叫んで言った。『あなたはおんなの中で祝福された方。あなたの胎内の子も祝福されています。・・・主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸せでしょう(同上1:40-45)。』」と。

 この待降節を締めくくるにあたって、わたしたちも、マリアに倣ってみ言葉に対する確固たる信仰を日々生きることによってマリアのような幸せに与ることができるよう共にいのりましょう。

 そして、メシア不在の我が国のクリスマスが、全人類の救い主であるキリストを、ひとりでも多くの人々が知るようになるために、特に、この時期にクリスマスの本当の意味をしらせながら、救い主イエスを伝えていくことができるように、主の派遣のお言葉を、改めて確認しましょう。

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。・・・あなたがたに命じておいたことすべてを守るようにおしえなさい(マタイ28:19-20)。」

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
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