待降節第3主日・B年(23.12.17)

「重ねて言う 喜べ 主は近づいておられる」

 

わたしは主によって喜び、わたしの魂(たましい)は、わたしの主によって喜び踊る(イザヤ61:10参照)

 本日の入祭唱で「主に結ばれた者として、いつも喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい(フィリピ4:4-5参照)」と、歌い、第一朗読でも、預言者イザヤの言葉、「わたしは主によって喜び楽しみ(同上61:10)」と、朗読しましたので、今日のミサは、伝統的に「喜びの主日」として祝われるので、待降節の蠟燭(ろうそく)も喜びを表すバラ色ですし、祭服も紫ではなく、バラ色の祭服を用いることができます。

 では、この喜びの源泉(げんせん)は、一体、どこにあるのでしょうか、今日の朗読聖書を手掛かりに確かめてみましょう。

 因みに今日の答唱詩編でも、「わたしは神をあがめ、わたしの心は神の救いに喜びおどる(ルカ1:46)」と歌いましたが、すでに、第一朗読つまり、イザヤ書61章10節で、「わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの主によって喜び躍る(おど)」と、朗読しました。

 実は、第一朗読は、第三イザヤの61章からの抜粋(ばっすい)で、半世紀の長きにわたって、戦勝国による強制移住(通称:捕囚(ほしゅう))からようやく解放され、期待と希望をもって帰国したばかりの捕囚民に対して、第三イザヤは、声高らかに喜びの預言を次のように告げ知らせます。

 まず、「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。」と。

 まさに、第三イザヤの預言者としての特別な使命について確認しています。

   ここで言われている「油を注ぎ」とは、預言者としての召命を受けたことを示しています。

 また、「貧しい人に」とありますが、イエスが、ご自分のメシアとしての働きを、洗礼者ヨハネの弟子たちに総括(そうかつ)する場面でも、次のように宣言しておられます。

「イエスは、お答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を知らされている(マタイ11:4-5)。』」と。

 ですから、次のように続きます。

「打ち砕かれた心を包み

 捕らわれ人(びと)には自由を

 つながれている人には解放を告知(こくち)させるために。」と。

   因みに、このくだりは、イエスが初めてご自分の故郷(ふるさと)ナザレに帰られて、早速、安息日に会堂で、説教をなさるためにお開きになった聖書の箇所にほかなりません。そこで、イエスは開口一番次のように宣言なさいました。

「この聖書のことばは、今日(きょう)、あなたがたが耳にしたとき、実現した(ルカ4:21)。」と。

 ですから、第三イザヤは、すでに紀元前6世紀に、まさにイエスと同じ召命を受けていたと言えましょう。

 

わたしは荒れ野で叫ぶ声である主の道をまっすぐにせよ(ヨハネ1:23b参照)

   次に、今日の福音ですが、福音記者ヨハネが伝える洗礼者ヨハネの使命について説明する箇所であります。

 実は、福音記者ヨハネは、その福音書の冒頭で、初代教会ですでに歌われていた賛美歌を引用しながら、みことばであるイエスの受肉(じゅにく)の神秘を、見事(みごと)に解き明かしする中で、洗礼者ヨハネについて次のような基本的説明をしています。

「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しするために来た。光について証しするため、また、すべの人が彼によって信じるようになるためである。彼は、光ではなく、光について証しするためである。」と。まず、15節で次のように念を押しています。

「ヨハネは彼についてあかしをし、こう叫んだ、『彼は、わたしの後から来るが、わたしより優れている。彼はわたしより先に存在していたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。」と。

 そして、続く19節から、彼のあかしについて具体的に説明します。

「さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人(びと)たちをヨハネのもとへ遣わして、『あなたは、どなたですか』と質問させたとき、彼は公言(こうげん)して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した。」

 ここで言われている「わたしはメシアではない。」と言うヨハネの証言ですが、「メシア」とは、旧約時代から待ち望んでいた「救い主」のヘブライ名にほかなりません。ちなみに、ギリシャ語では、「クリストス」、日本語では、「キリスト」となり、元々(もともと)の意味は、「油注がれた者」を表しています。

 ここで、さらに尋問(じんもん)が続きます。「彼らがまた、『では何ですか。あなたはエリヤですか』と尋ねると、『そうではない』と答えた。」

 ここで、指摘されている「エリヤ」ですが、紀元前九世紀に活躍した北イスラエルの預言者で、マラキ書によれば、終末の最後の審判に先立って人々を回心させるために再び世に遣わされると預言されています(マラキ3:23)。

 なかなか決定的な答えを、ヨハネから得られない彼らは、次のように最後の答えを要求します。

「わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だというのですか。」

 そこで、ヨハネは、預言者イザヤの言葉を引用(いんよう)して答えます。

「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

 この返事は、イザヤの言葉(イザヤ40:3)を、きわめてドラマチックに自分の口に乗せたと言えましょう。

 実は、イザヤの原文の文脈は、かつてモーセの時代、エジプトで下層民として搾取(さくしゅ)されていた奴隷の家から、乳と蜜の流れる約束の地を目指して脱出したとき、まさに「荒れ野の道」を、通って行ったことを思い起こさせる強制移住から帰還する新しい出エジプトとして表現しようとしていると言えましょう。

 けれども、ファリサイ派から派遣された者は、さらに追求します。

「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と、迫ります。

 それに対して、ヨハネは、「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後(あと)から来られる方で、わたしはその履物(はきもの)のひもを解く資格もない。」

 ここで言われている「水の洗礼」とは、人々に来るべきメシアを迎える準備をさせるための「回心の洗礼」といえましょう。

 ですから、31節から、次のような説明がなされます。

「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、”聖霊“によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた(同上1:33b-33)。」と。

 因みに、わたしたちの受けた洗礼は、言うまでもなく、イエスに「聖霊によって授けられた洗礼」にほかなりません。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】 https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st231217.html