「主の道を整え その道筋をまっすぐにせよ」
慰めよ、わたしの民を慰めよ(イザヤ40:1参照)
待降節の第二週目を迎え、その典礼は、主をお迎えする心の準備をどのように整えるのかを、救いの歴史のドラマを通して教えているのではないでしょうか。
まず、今日の第一朗読で、預言者イザヤは、バビロンに強制移住させられていたイスラエルの民に向かって、主なる神の切なる慰めを伝えてくれます。
「慰めよ、私の民を慰めよと
あなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ
苦役の時は今や満ち、彼女の咎(とが)はつぐなわれた、と。
罪のすべてに倍する報いを主の御手(みて)から受けた、と。」
この第二イザヤの慰めのメッセージの根元(こんげん)にあるのは、ペルシャの王キュロスのオリエント世界への台頭(たいとう)という出来事にほかなりません。
ですから、王キュロスは、イスラエルの民が強制的に移住させられていた、首都バビロンを目指して、刻々と迫っていますが、彼こそ神が、メシアとして派遣された人物であり、その目的は、半世紀にわたって故国を追われ異国の地に強制移住させられていたイスラエルの民の解放にほかなりません。
ここで言われている「苦役(くえき)の時」とは、強制移住を指しています。つまり、イスラエルの民の罪ゆえに、神は、一千キロも離れている戦勝国の首都バビロンのケベル河のほとりへの強制移住というまさに「苦役(くえき)」を、与えましたが、それはもうすでに過去のことで、今はその「苦役(くえき)の時」は、終わりなんと「慰めの時」が、始まろうとしているというのです。
つまり、今こそ救いの歴史の転換期(てんかんき)であり、神は苦役(くえき)を終わらせ、なんと慰めを与えようと決心されたのです。だから、
「主のために、荒れ野に道を備え
私たちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。」
かつて、モーゼの時代、イスラエルの民は、エジプトの奴隷の家から奇跡的に脱出し、荒野(あらの)へ逃げ込んだ時のことを思い起させます。続いて叫びます。
「高い山に登れ
良い知らせをシオンに伝える者よ。・・・
力を振るって声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ
見よ、主なる神。
彼は力を帯びて来られ、御腕(みうで)をもって統治(とうち)される。・・・
主は羊飼いとして群れを養い、御腕(みうで)をもって集め
小羊を懐(ふところ)に抱(いだ)き、その母を導いて行かれる。」
あなたがたのために忍耐しておられる(二ペトロ3:9参照)
次に、今日の第二朗読ですが、使徒ペトロが、全キリスト者に送った手紙二の3章で、主は再臨(さいりん)を遅らせているのではなく、「一人も滅びないで皆が回心するようにと、あなたがたのために忍耐しておられる」と強調しています。
けれども、「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」と。
この世の終わりを描くにあたり、火による大激変(だいげきへん)があるという当時の考え方を借用(しゃくよう)しています。
また「暴かれる」というのは、世の終わりの審判(しんぱん)という文脈に一番ふさわしいと言えましょう。そして、続きます。
「このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。」
「だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、傷や汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。」と。
とにかく、キリストを信じる私たちにとって、主の日は、万物の恐るべき最期(さいご)というよりも、むしろ、新たな創造の始まりと言えましょう。
なぜなら、この新たな創造は、すでに、キリストの復活によって始まっているからです。ですから、聖なる生活を実践することによって、新たに創造される世界の実現への道を拓(ひら)き、かつ、それを早めることができるのではないでしょうか。
その方は聖霊で洗礼をお授けになる(マルコ1:8参照)
今日の福音ですが、マルコ福音書の冒頭の箇所で、早速、洗礼者ヨハネの活躍を次のように報告しております。
「預言者イザヤの書にこう書いてある。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ声がする。
〈主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。〉』」と。
マルコは、イエスの福音を編集するにあたって、まず、先駆者(せんくしゃ)ヨハネの宣教をもって始めています。このヨハネは、回心の洗礼を授けながら、人々に救い主イエスを迎える準備をさせていたのです。
ですから、マルコは、まずマラキ書、次にイザヤ書の句を引用しています。
マラキは、一人の使者が神の突然の到来に備えて「道を整える」であろうことの日を預言しました。実は、マラキは、その使者のことを偉大な預言者エリヤだと考えていましたが、エリヤの再臨は終わりの日の出来事の前兆(ぜんちょう)をあらわしていました。さらに、マルコはイザヤの「慰めの書」(今日の第一朗読を参照)と呼ばれる箇所から引用しています。
ちなみに、もともと、旧約聖書のこれらの箇所では、神がその民に語っています。「その道を整え、荒れ野」を、通ってご自分の民を祖国に連れ戻されるに違いないと「声を大にしながら、喜んで」いるのです。
とにかく、洗礼者ヨハネが活動を開始したときは、ユダヤ人はローマ帝国の支配下にあり、数世紀の間、神のみことばを彼らに語る預言者は存在していませんでした。
しかも、イスラエルの解放を求めてローマ帝国に対立する動きは希望、そして期待にあふれたこの時代の非常に緊迫(きんぱく)した雰囲気(ふんいき)の中で、洗礼者ヨハネは、悔い改めの洗礼によって、力強い衝撃(しょうげき)を与えました。
ヨハネは、イスラエルに向かって心から主に立ち返るつまり、回心しすなわち心を入れ替えて、新たな生き方を実践するよう洗礼を授けていたのです。
わたしたちも、この待降節に当たって、自分は、キリスト者としての生き方を実践しているのか、まさに回心する恵みの時ではないでしょうか。
それは、日々イエスのみことばに、聞き従い、聖霊の導きの下(もと)、イエスの弟子としての生き方を貫いて行く決意をあらたにする恵の時を迎えたのではないでしょうか。しかも、この回心は、個別的にだけではなく、まさに共同体ぐるみで実践すべきではないでしょうか。