待降節第1主日・B年(23.12.3)

「目を覚ましていなさい」

どうか天を裂いて降りて来てください(イザヤ63:19b参照)

   今日から始まった待降節にあたって、典礼を手掛かりに、私たちの信仰の生き方について、ご一緒に振り返ってみましょう。

 早速、今日の第一朗読ですが、第三イザヤが、50年にわたる試練の捕囚時代(戦勝国の首都バビロンの畔(ほとり)への強制移住)を、終えて神の都エルサレムに帰って来ることができたときのことです。半世紀にわたる空白のため、廃墟(はいきょ)と化したただ中で、父なる神に心から、次のような切なる願いをささげた場面にほかなりません。

「主よ、あなたの僕(しもべ)たち、あなたの部族(ぶぞく)のために、

 帰って来てください。

 しばらくの間、わたしたちの敵があなたの聖なる民をわがものとし、

 あなたの聖所を踏みつけました。

 あなたによって一度も支配されたことがなく、

 あなたの名をもって呼ばれたことのない者のように

 わたしたちはなってしまいました。

 どうか、天を裂いて降って来てください。み前に山々が揺れ動くように。

 あなたを待つ者に計らってくださる方は

 神よ、あなたのほかにはいません。

 喜んで正しいことを行い

 あなたの道に従って、あなたを心に留める者を

 あなたは迎えてくださいます。

 あなたは憤られました、わたしたちが罪を犯したからです。

 しかし、あなたの御業(みわざ)によって、わたしたちはとこしえに救われます。」と。

 この切なる預言は、みごとに成就され、神殿は、紀元前515年に再建(さいけん)し、帰還後のイスラエルは、神殿中心共同体、すなわち祭司たちの王国に生まれ変わることができたと言えましょう。

 その時代を、詩編作者は、次のように詩(うた)っています。

「万軍の主よ、あなたがいますところは

 どれほど愛されているでしょう。

 主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。

 命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。

 あなたの祭壇には、鳥も住処(すみか)を作り

 燕(つばめ)は巣をかけて、雛(ひな)を養っています。

 万軍の主よ、わたしの王、わたしの神よ。

 いかに幸いでしょう

 あなたの家に住むことができるなら

 まして、あなたを賛美することができるなら(詩編84:2-4)。」と。

 

主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます(一コリント1:7参照)

   次に、今日の第二朗読ですか、使徒パウロが、派閥(はばつ)争いのため、分裂の危機に立たされていたコリントの教会のためにしたためた第一の手紙の冒頭の箇所であります。

 使徒パウロが、この教会を最初に訪問したのは、彼の第二伝道旅行(49-51年)の途中18か月あまりでしたが、その後、なんと内部分裂と混乱の危機にさらされていたコリントの教会に、切なる思いを込めて書き送ったとされる手紙です。

 しかも、この手紙の序文では、コリントの教会が、

「キリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしは、神に感謝しています。

  あなたがたは、キリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しが、あなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物(たまもの)に何一つかけるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。そのイエス・キリストは、あなたがたを私たちの主イエス・キリストの日において責められることのない者として、終わりまで確固たる者にしてもくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」と。

 ここで、言われている「主イエス・キリストの日」とは、十字架に挙げられ天に挙げられたキリストが再び来られる(再臨)日のことにほかなりません。

 このように、パウロは、いきなり問題解決の方法についてしたためるのではなく、コリントの信者たちが、キリストの再臨を待ち望みながら、きわめて前向きに信仰を生きることを強調しているのではないでしょうか。

 

その時がいつなのかあなたがたには分からない(マルコ13:33b参照)

 最後に今日の福音ですが、マルコが「終末の接近」について語る最後のくだりは、「しかし、かの日ないしかの時刻については、誰も知らない。天にいる御使いたちも、子も知らない。父のみが知っている(同上13:32)。」と。

 それでは、どのような心の準備が必要なのか、今日の箇所で次のように説明しています。

「気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」と、念を押して、次のようなたとえを語られます。

「それは、ちょうど、家を後(あと)に旅に出る人が、僕(しもべ)たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているようにと、言いつけておくようなものだ。」と。

 とにかく、主人は、僕たちに責任を持たせます(文字どおりには、「自分の僕たちに権限を与える。」となります。)

 この筋書き(すじがき)は、明らかにイエスと教会のことを指しています。

 つまり、イエスは、権限を使徒たちにすでに委ねました。彼らの一人ひとりが、信仰共同体の中で実践されるべき比類のない奉仕は、あるいは務めとしての仕事を割り当てられていました。

「門番」とは、警戒して待つ最も大きな責任を持つペトロのことで、特別に重要な任務を担っています。

「だから目を覚ましていなさい。」とは、「用心する」また預言者の任務の一端(いったん)である「警戒する」ことを意味しています。さらに、続けます。

「いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏(にわとり)の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰ってきて、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」と。

 三回も繰り返される「目を覚ましていなさい。」とは、「用心する」また預言者の任務の一つである「警戒する」ことを意味しています。

 また、「主人」とは、イエスのことで、彼は神の「家」(旧約の神殿と新約の教会の両方)を支配しているからにほかなりません。

 ここで、マルコは、夕方、夜中、鶏(にわとり)のなく頃、明け方の四つに夜を区分し、それらを軸(じく)にしてこの後(あと)の受難物語を構成することによって、この警告をイエスの受難に結びつけています。

 とにかく、イエスに従うわたしたちは、自分たちの主の存在に対して油断せず、絶えず注意を払うように招かれているのではないでしょうか。

 

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st231210.html