王であるキリスト・A年(23.11.26)

「わたしの兄弟である最も小さい者」

神の国とは、神の王的支配のこと

 皆さんが、よくご存じにように、新約聖書においてイエスが、語られた中心的なキーワードは神の国にほかなりません。

 因みにこの神の国とは、神の王的支配を意味していると言えましょう。

 

旧約聖書における神の王的支配

 では、まず、旧約聖書では、この神の王的支配が、どのように実現されたかを、振り返ってみましょう。

 それは、一言で言うならば、「小さき者を守る王的支配」ではないでしょうか。

 例えば詩編146篇では、弱い人を保護する王の支配が、次のように歌われています。

 「とこしえにまことを守られる主は

 虐げられている人のために裁きをし

 飢えている人にパンをお与えになる。

 主は捕らわれ人(びと)を解き放ち

 主は見えない人の目を開き

 主はうずくまっている人を起こされる。

 主は従う人を愛し

 主は寄留(きりゅう)の民を守り

 みなしごとやもめを励まされる。

 しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる(6-10)。」と。

 さらに、神は、弱者の保護王でもあります。

 ですから、詩編68編では、弱者の保護王として出エジプトを背景に次のように歌われています。

「神は立ち上がり、敵を散らされる。

 神を憎む者はみ前から逃げ去る。

 煙は必ず吹き払われ、蝋(ろう)は火の前に溶ける。

 神に逆らう者は必ずみ前に滅び去る。

 神に従う人は誇らかに喜び祝い

 み前に喜び祝って楽しむ(2-4)。」

 このように、旧約聖書においては、主なる神の弱者を救う理想的な王としてのイメージが出来上がったといえましょう。

 ですから、イスラエルは、エジプトを脱出し、40年にわたる荒れ野の旅の後(のち)、ようやく乳と蜜の流れる約束の地にたどりついたのであります。

 したがってこの体験に根ざす、自分たちをエジプトの奴隷に家から解放した神こそイスラエルの王であると自覚し、主こそ現実の理想王、彼らを実際にエジプトの奴隷の家から解放した王であるという自覚が確立したといえましょう。

 

新約のおける神の国

 それでは、新約聖書においては、神の国はどのように語られているのでしょうか。

 まず、ルカ福音書では、次のようなくだりがあります。

「貧しい人々は、幸いである。

 神の国はあなたがたのものである。

 今飢えている人々は、幸いである。

 あなたがたは満たされる。

 今泣いている人々は、幸いである。

 あなたがたは笑うようになる(同上6:20-21)。」と。

 これらのお言葉の背景には、単に経済的な貧しさだけでなく、圧迫されている人々、搾取(さくしゅ)されている人々、保護を受ける必要のある弱い人々が含まれていると言えましょう。

 ただ、注意すべきは、このような貧しい状態そのものが、幸いだというのではありません。実に、彼らにこそ、神の国、つまり神の王としての支配、すなわち救いの配慮が確かにあるから幸いだと言うのです。

 ですから、この神の王的支配つまり救いは、単に理想的というのではなく、飢えた者には満腹を、泣く者には笑いを、と具体的に約束されているのです。

 とにかく、「神の国はあなたがたのものである。」という確実なお言葉は、イエスの断言としてイエスがもたらす神の国、イエスによって実現する神の王としての救いの配慮という意味ではないでしょうか。

 つまり、イエスの主張なので、イエス自らが貧しく弱い人々に神の国、神の救いをお与えになることを、示唆(しさ)しているのです。

 次に、神の国は、特に子どもにおいて実現することを強調しています。たとえば、マルコ福音書に次のようなくだりがあります。

「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤(いきどお)り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。アーメンわたしは言う。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された(10:13-16)。」と。

 ここで、「神の国は、このような者たちのものである。」というとき、子供の良い性格を問題にしているのではありません。ここでは、彼らが子供としては単に弱い者という一語(いちご)に尽きるので、まさに神があわれみと無限の配慮を示すには、格好(かっこう)の対象だからなのです。

 つまり、かつて自分の力で自らを救うことができなかったエジプトの奴隷であったイスラエルを救いだした神には、無力な、自らの徳も何もないだだの弱さそのものである子どもこそ、神のあわれみが最も明らかに示されるからにほかなりません。

 ですから、われわれ大人は、神の前では自分は幼子のようにつまらぬもの、無力無価値なものであることを認めることを、要求されているのではないでしょうか。

 最後に、今日の福音は、主が天使たちを従えて栄光に包まれて再び来られるときこそ、最後の審判がなされるときであり、その判決の基準は、在世中の弱者への態度によるというのであります。

 ですから、注目すべきは、「天地創造の時から準備されている国を受け継ぐ祝福された人たち(同上25:34)」の反応であります。

「いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、喉(のど)が渇いているのを見て飲み物をさしあげたでしょうか。」と。それに対して王は、「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と、お答えになられます。

 つまり、弱い人々への態度こそ、神の国を受けるか否かの決定的基準にほかなりません。ですから、このミサで派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会においてこの最も小さき者への愛の実践に励むことができるよう共に祈りましょう。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st231126.html