年間第33主日・A年(23.11.19)

「忠実な僕(しもべ)だ」

あなたがたはすべて光の子、昼の子だから(一テサロニケ5:5参照)

 早速、今日の第二朗読ですが、使徒パウロがテサロニケの教会に宛ててしたためた、手紙一の5章からの抜粋であります。因みに、このテサロニケの教会ですが、使徒パウロが、第二宣教旅行中に創立した、異邦人からの改宗者が多く、おそらく、主の再臨について不安を抱いていたのではないでしょうか。

 ですから、使徒パウロが、それらの質問に対する答えを、この手紙に託し、弟子のテモテを通じて届けたと考えられます。

そこで、次のように、単刀直入(たんとうちょくにゅう)に答えています。

「盗人(ぬすびと)が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が、『無事だ。安全だ』といっているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。」と、忠告しています。

 「主の日」つまり、主の再臨(さいりん)すなわち世の終わりに、主が再び天使たちを従えて来られる日が、彼らに「破滅(はめつ)として「突然、襲うので」そこから決して逃れることができないというのです。

 確かに、「主の日」は、だれに対しても、夜、「盗人(ぬすびと)が来るように到来します。けれども、それが、「突然」襲い掛かり、それが裁きの日となるのは、「暗闇(くらやみ)の中にいる」人々に対してだけであり、「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇(くらやみ)に中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人(ぬすびと)のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼(ひる)の子だからです。」

 因みに、使徒パウロが、エフェソの教会に送った手紙に、次のようなくだりがあります。

「あなたがたは、以前には暗闇(くらやみ)でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい(同上5:8)。」と。

 さらに、強調します。

「わたしたちは、夜にも暗闇(くらやみ)にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」と。

 なぜなら、「眠り」は、まさに夜にふさわしく、「光と昼」に支配されているキリスト者は、「眠り」に落ち込めないと確信しているからです。

 つまり、キリスト者が決して落ちてはならない「眠り」とは、神の呼びかけに気づかない態度だからではないでしょうか。すなわち、キリスト者は、「主と結ばれて、光となって」いるから、神のみ旨に気づきそれに、日々従うことができるというのです。

 既に紹介したように、使徒パウロは、エフェソの教会に宛てた手紙の中で、

「かつて、あなたがたは闇でしたが、今は、主と結ばれて光となっています。『光の子』として生活しなさい。実に、光が結ぶ実は、あらゆる善意(ぜんい)、正しさ、真実(しんじつ)を備えたものです主に喜んでいただけることは何であるか見極めなさい。実を結ばない闇の業に手を貸してはなりません(同上5:8-11a)。」と。

 

忠実な僕だ、よくやった、お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう(マタイ25:21b参照)

  次に、今日の福音ですが、マタイが伝えるタラントンのたとえであります。

 ちなみに、このたとえは、弟子たちにだけに語られたとなっています。

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。」と。

 因みに、このたとえで使われている「タラントン」ですが、ギリシャの貨幣(かへい)の単位で、一タラントンは、約二十年分の賃金に相当する金額になるとのことです。

 つづいて、それぞれ異なるタラントンを預かった者が、それをどのように活用したかを、次のように説明しています。

「五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。」というのです。

 つぎに、場面は、「主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。」に変わります。

「まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『ご主人さま、五タラントンお預けになりましたが、御覧(ごらん)ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『ご主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』と。これら二人は、主人が自分たちのことを信頼して、財産を「預けた」主人の行為に、自分たちへ向けられた信頼の大きさを自覚していたので、「もうける」ことができたのです。

 ですから、この二人に対する主人のねぎらいの言葉は、もうけた金額に関係なく、まったく同じです。この主人はとにかく、金額には関係なく、二人は、主人にとっていずれも「忠実な良い僕」であることに変わりはありません。

「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『ご主人さま、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ご覧ください。これがあなたのお金です。』」と。

 とにかく、これらの言葉には「預けた」という言葉が見つかりません。つまり、この僕は、最初から主人を、信頼していなかったので、「厳しい方」だったのです。ですから、この僕は、「あなたのタラントン」を、地に隠したことを告白する「怠け者の悪い僕」と呼ばれたのです。

 とにかく、わたしたちは、「光の子」として、父なる神に信頼し、日々、自分のなすべきすべての業を、忠実に果たさなければなりません。

 ですから、最後の晩餐の席上、イエスは弟子たちを次のように派遣なさいました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものはなんでも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である(ヨハネ15:16-17)。」と。

 このミサで、皆さんは、それぞれの家庭、学校、職場そして地域社会に派遣されます。それは、それぞれの場で、愛の実践に励むためなのです。

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st231119.html