年間第32主日・A年(23.11.12)

「目を覚ましていなさい」

 

知恵を愛する人には自分を示す(知恵6:12参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、知恵の書の6章からの抜粋であります。

 ちなみに、この知恵の書ですが、ギリシャ時代(333-63BC)に、アレキサンダー大王による世界支配が、ヘレニズム文化(ギリシャ化政策)を生み出した時に、当然、ユダヤ人たちは迫害を受け、信仰の厳しい試練の時、強い信仰によって、政治的にも異民族の支配から解放されなければならない時代でした。

 ですから、その様な厳しい試練を乗り越えるために、智恵文学が芽生えたと言えましょう。

 従って、今日の箇所は、まず、智恵の働きの原則を、次のように説明しています。

「知恵を愛する人には進んで自分を現し、

 探す人には自分を示す。

 求める人には自分の方から姿を見せる。」と。

 まず、最初に「知恵を愛する人」と言われていますが、知恵は、神との親密な交わりの中で成熟されるというのです。つまり、知恵を与える神と親しく交わることによって、結果的に賢明が与えられるのです。

 ですから、「智恵を求める人に自分の方から姿を見せる。」と言うのです。

 また、「智恵を求めて早起きする人は、労苦せずに

 自宅の門前(もんぜん)で待っている智恵に出会う。」のです。

 だから、「知恵を思って目を覚ましていれば、心配もすぐに消える。」と言うのです。しかも、「智恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、道でその人たちに優しく姿を現し、深い思いやりの心で彼に出会う。」のです。

 このように、知恵は人との出会いを求める霊的な力と言えましょう。

 つまり、わたしたちに神との親密な交わりをもたらす霊的な力に他なりません。

 

イエスを信じて眠りについた人たちをもイエスと一緒に導きだしてくださる(一テサロニケ4:11b参照)

 次に今日の第二朗読ですが、パウロが、第二宣教旅行中に創立したテサロニケの教会に宛てて書いた手紙一の4章からの抜粋で、おそらく、テサロニケの信徒が、特に主の再臨の前に亡くなった兄弟たちに関する質問を送り、それに対する返事を、この手紙にしたためたと考えられます。

 ですから、「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」と、断言し勇気づけてくれます。

 そこで、詳しく次のように説明します。

「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちよりも先になることは、決してありません。すなわち、合図(あいず)の号令(ごうれい)がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず、最初に復活し、それから、わたしたち生き残った者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。」と。

 とにかく、キリストの復活こそが、どのような苦しみにあっても、たとえ死という最大の苦しみに遭遇しても、神が私たちを、決してそこに捨てておくことがないという希望を与えてくれたのです。

 ですから、キリストの再臨は、まさに「キリストに結ばれて死んだ人たち」の復活が実現する時にほかなりません。

 とにかく、パウロは、この確信を「主の言葉に基づいて」したためています。

 しかも、パウロは、主の言葉に基づいて「今述べた言葉」によって「互いに励まし合う」ようにと勧めています。このように、「死者の復活」についての確信は、まさに「主の言葉」に信頼している者に与えられる希望にほかなりません。

 

五人は愚かで五人は賢かった(マタイ25:2参照)

  最後に今日の福音ですが、イエスが、神殿の境内(けいだい)で、人々に向かって、たとえをもちいて、突然、到来する主の再臨(終末)にそなえて、「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないから」と、いつも準備して生きるようにと勧めています。

 そこで、イエスは、婚宴を迎える十人のおとめのたとえを用いて、その心構えについて語られます。

 ところで、花婿を迎えに出る十人のおとめのうち、なんと、五人は愚かで、五人は賢いおとめたちでした。

 そこで、賢さと愚かさを生み出す原因は、「愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油を用意していなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺にあぶらを持っていた。」ことにほかなりません。

 ですから、愚かさと賢さとの分かれ目は、「油」を、用意していたかどうかにあると言えます。しかも、この賢さを示すしるしは「油」にほかなりません。

 ところで、真夜中になって、ようやく「花婿(はなむこ)だ。迎えに出なさい」と、叫ぶ声を聞いたのです。

 しかしながら、「愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』かしこいおとめ答えた。『わけてあげるほどはありません。それより、店に買いに行って、自分の分を買ってきなさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿(はなむこ)が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸はしめられた。」というのです。

 ところが、愚かなおとめたちも来て、「ご主人様、ご主人様、開けてください。」と、願ったのですが、なんとご主人はけんもほろろに、「わたしたちはお前たちを知らない」と、断りました。

 ここで、「戸は閉められた。」と言うことは、重要な意味があるのではないでしょうか。つまり、今まさに決定的な時が迫っているので、そのための準備を怠(おこた)るなら取り返しのつかない事態(じたい)をまねいてしまうからにほかなりません。

 しかも、この区別をもたらしたのは、「油」なのです。

 実は、マタイ福音書では、「ともし火」は、「善い業」を表すたとえとして描かれています(同上5:16参照)。

 しかも、人が「善い業」に向かうのは、神からの賜物である聖霊の導きがあるからと言えましょう。

 ですから、聖霊という「油」が、良い業つまり、「イエスの兄弟である最も小さい者」への愛の実践ではないでしょうか。

 ですから、主の再臨における最後の判決は、「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いているときに飲ませ、旅をしているときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ(同上26:34-36)。」に他なりません。

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st231105.html