年間第31主日・A年(23.11.5)

「仕える者になりなさい」

 

神のことばがあなたがたの中に現に働いている(一テサロニケ2:13参照)

  早速、今日の第二朗読ですが、使徒パウロがコリントから、恐らく紀元50年頃、テサロニケの教会に切なる思いをこめて書き送ったとされる手紙一の2章からの抜粋にほかなりません。

 ちなみに、このテサロニケの教会ですが、パウロの第二宣教旅行中にローマ帝国の属州マケドニアの首都に創立したのです。ちなみにこの教会員の大半は異邦人の改宗者であったとのことです。

 ですから、今日の箇所の締めくくりの箇所で、パウロは、自分の宣教活動をつぎのように振り返っています。

「兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしはだれにも負担を掛けまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣(の)べ伝えたのでした。

 このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」と。

 まさに宣教活動によって神の言葉を聞いたので、異邦人であったテサロニケの人々が、キリスト者となることができたというのです。

 つまり、信仰への第一段階は、まずみことばを聴くことによって始まるというのです。実は、この信仰への第一のステップを、パウロはローマの教会に宛てた手紙の中で、さらに詳しく次のように説明しています。

「『みことばはあなたの近くにあり、

  あなたの口、あなたの心にある。』

 これは、わたしたちが宣(の)べ伝えている信仰のことばなのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者のなかから復活させられたと信じるなら、あなたは救われるのです。・・・『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。

 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣(の)べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。・・・実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです(ローマ10:8b-17)。」と。

 ですから、わたしたちの教会も、宣教師の方々の献身的な働きによってキリストの言葉を聞くことができたから、信者になり、教会を誕生させることができたのですが、今度は、みことばを伝える宣教共同体に、つまり、わたしたちもみことばを伝える宣教者になる尊い使命をいただいていることを確認すべきです。

 ちなみに、教皇フランシスコは、近年、わたしたちも福音宣教者にならなければならないことを、つぎのように熱く呼びかけておられます。

「洗礼を受けたすべての人には例外なく、福音宣教に駆り立てる聖霊の清める力が働いています(『福音の喜び』119項)。・・・

 洗礼を受け、神の民のすべてのメンバーは宣教する弟子となりました。・・・イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったなら、すべてのキリスト者は宣教者です(同上120項)。・・・

 もちろん、わたしたちは皆、福音宣教者として成長するよう呼ばれています。そして、同時に、よりよい養成を受け、愛を深め、福音のより明解なあかしをすることを望んでいます(同上121項)。・・・

 福音宣教全体は、神のことばに根ざし、それを聞き、黙想し、それを生き、祝い、あかしします。聖書は福音宣教の源泉です。従ってみことばを聴く養成を受け続ける必要があります。教会は自らを福音化し続けなければ、福音を宣教できません。神のことばを『ますますあらゆる教会活動の中心に置く』ことが絶対に必要です(同上174項)。」と。

 

だれでも高ぶる者は低くされへりくだる者は高められる(マタイ23:12参照)

 つぎに、今日の福音ですが、群衆に向かって当時のユダヤ社会の宗教指導者であった律法学者やファリサイ派の人々の目に余る偽善(ぎぜん)の行いを鋭く批判なさり、最後に次のように強調なさっておられます。

「あなたがたは、『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。教師と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」

 そして、最後に、極めて重大な宣言を次のようになさいます。

「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕えるものになりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と。

 ちなみに、この箇所のマルコ福音における並行箇所と考えられる次のようなイエスのお言葉があります。

「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金(みのしろきん)として自分の命を献げるために来たのである(マルコ10:42-45)。』」と。

  ですから、今から60年前に開かれた第二バチカン公会議においても、聖職者中心の権力によるタテ社会である教会の姿勢を、ともに歩む神の民としての教会に抜本的な改革を目指したといえましょう。

 ちなみに、刷新された教会のあり方を『教会憲章』によって示すことができました。その中で、司教職について次のような宣言があります。

「家長である父からその家族を治めるために派遣された司教は、奉仕されるためではなく、奉仕するために、また羊のために命を捧げるために来た牧者の模範を心にとどめなければならない(『教会憲章』27項)。」と。

 さらに、パウロは、教会全体が奉仕共同体であることを、次のように強調しています。

「この降りてこられた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、或る人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業(わざ)に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟して人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです(エフェソ4:10-13)。」と。

 奉仕の共同体である教会は、このミサの終わりに皆さんを、それぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において奉仕することができるように派遣します。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st231105.html