年間第30主日・A年(23.10.29)

「互いに愛し合いなさい」

 

寄留者(きりゅうしゃ)を虐待し圧迫してはならない(出エジプト22:20参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、モーセの時代のイスラエルの民の生き方についての大切な愛の掟を強調している場面にほかなりません。

 ちなみに、ヨセフのお陰で、エジプトに住むようになったイスラエル人たちは、時代が変わったときには、社会的地位は、下層民となり、過酷(かこく)な重労働(じゅろうどう)を課せられ、虐げられていました。ところか、神はモーセを解放者として起用し、イスラエルの民をエジプトの奴隷(どれい)の家から、奇跡的(きせきてき)に救いだしました。

 ですから、今日の朗読箇所の場面は、エジプトを脱出したイスラエルの民の基本的生き方についての大切な指針と言えましょう。

 まず、次のように宣言します。

「主は言われる。寄留者(きりゅうしゃ)を虐待(ぎゃくたい)し、圧迫(あっぱく)してはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者(きりゅうしゃ)であったからである。」と。

 この主なる神のご命令を、今日(こんにち)の世界にあてはめるならば、内戦や戦争のために大勢の難民が住み慣れた故国を脱出しなければならない現状に対してわたしたちの責任が問われていることにほかなりません。

 以前、ベトナム戦争後、故国を脱出したボートピープルを、日本でも修道会は積極的に受け入れ、今日(こんにち)の彼らの世代は永住権(えいじゅうけん)を獲得(かくとく)し、安定した生活を送っているようです。

 つぎに、神はさらに具体的な愛の掟を強調なさいます。

「寡婦(かふ)や孤児(こじ)はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼らを苦しめ、彼らがわたしに向って叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。」と。

 先日(せんじつ)、お会いしたカトリック系の養護施設で、ボランティア活動をしている方(かた)によれば、養護(ようご)施設の多くの子どもたちは、親の虐待(ぎゃくたい)の被害者(ひがいしゃ)が多いので、心のいやしの奉仕が必要であると強調していました。

 さらに、近年、ベトナムからは、多くの若者たちが特に研修生(けんしゅうせい)として日本の工場で働き、借金(しゃっきん)を返済(へんさい)するために実家(じっか)に仕送りしなければならない厳しい状況の中、彼らも確かに具体的な援助を必要としています。

 とにかく、今日の現状においては、モーセの時代以上に具体的な愛の実践が求められているのではないでしょうか。

 

隣人を自分のように愛しなさい(マタイ22:29参照)

  次に、今日の福音ですが、イエスがファリサイ派の人々と「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」というイエスを試そうとして投げかけた質問に、お応えになられた場面に他なりません。

 相手が、律法の専門家ですので、当然、律法(りっぽう)と言う文脈でお答えになりました。

 それは、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神を愛しなさい。』」と申命記6章6節を引用してお答えになりました。

 続いて、「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分の様に愛しなさい。』」と、今度はレビ記の19章18節を引用しています。

 とにかく、相手が律法の専門家なので、いずれも旧約時代から定められている律法の掟を用いて説明なさいました。

 ところが、マタイが伝える福音書の文脈では、旧約時代の掟を超えるまさに新約時代に相応しい愛の掟を、次のように説明なさいます。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなた方の天の父の子になるためである(同上5:43-46)。」と。

 イエスは、明らかに旧約時代の愛の掟を超える、イエスの時代の新しい愛の掟、つまり「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と、旧約時代の隣人愛つまり同胞愛に限定された愛を超える愛を強調なさっています。

 ですから、ルカは旧約時代の隣人愛を超える兄弟愛について、善きサマリア人のたとえで、見事(みごと)に次のように説明しています。

 つまり、ユダヤ人から異邦人(いほうじん)扱いされ軽蔑(けいべつ)されていたサマリア人が、追いはぎに半殺しにされたユダヤ人を、

「その人を憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿に連れて行って介抱した(ルカ10:33-34)。」というのです。

 まさに同胞(どうほう)愛の枠を超えた隣人愛の実践(じっせん)にほかなりません。しかも、ヨハネは最後の晩餐(ばんさん)の席上、ユダが闇(やみ)の中に出て行ったあとに、何と次のような新しい愛の掟を弟子たちに命じられました。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる(ヨハネ13:34-35)。」と。

 ですから、イエスはこの新しい兄弟愛を、すべての人に知らせるために、最後の晩餐(ばんさん)の席上、弟子たちを次のように派遣(はけん)なさいました。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛して来た。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。・・・わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが、わたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。・・・あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、・・・わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である(同上15:9-17)。」と。

 わたしたちが、イエスの弟子として互いに愛し合うのは、ほかでもなくこの新しい愛の掟を、出来るだけ多くの人々に告げ知らせるためなのです。

 ですから、イエスは、「わたしの愛にとどまっていなさい(同上15:9)」と、命じられました。つまり、イエスの愛を、体験しなければ、この愛の掟を人々に告げ知らせることは出来ないのではないでしょうか。

 そして、このイエスの愛を、より深く体験できるように、ヨハネはその手紙の中で次のように強調しています。

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです(一ヨハネ4:7-12)。

 このミサによって派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会で愛の実践に励むことができるよう共に祈りましょう。



【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st231029.html