年間第29主日・A年「世界宣教の日」(23.10.22)

「燃える心、踏み出す足」

  本日は、「世界宣教の日」に当たり、すでに教皇フランシスコが、この日のための教皇メッセージを発表なさっておられるので、何時ものような朗読聖書からの説教のかわりに、このメッセージのさわりの箇所を、紹介することで、主日の説教にかえさせていただきます。

 まず、冒頭でこのメッセージのテーマを選ばれた理由を、次のように説明しておられます。

「今年の『世界宣教の日』には、ルカ福音書のエマオの弟子たちの物語(同上24:13-35)からインスピレーションを得て、『燃える心、踏み出す足』というテーマを選びました。

 この二人は混乱と失意のうちにいましたが、みことばと裂かれたパンにおられるキリストとの出会いによって、エルサレムへと引き返し、主はまことに復活されたと告げる心に火がついたのです。・・・イエスが聖書を説明してくださったことで燃える心、イエスだと気づくよう開かれた目、そしてきわめつけは踏み出す足です。」

 続いて、三つの段階に分けて次のように語られます。

1.「聖書を説明してくださったとき」の燃える心―宣教活動において、神のことばは心を照らし変えてくださる。

 エルサレムからエマオに向かう道すがら、二人の弟子の心はその表情が示すとおり、信じていたイエスの死によって悲しみに包まれていました。十字架につけられた師の敗北を目の当たりにして、その方こそメシアだとの期待が崩れ去ったのです。

 そのとき、『話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められ』ました。・・・その深いいつくしみによってイエスは、わたしたちの過ち、疑い、弱さがあろうとも、悲しみや落胆から『物分かりが悪く、心が鈍く』、信仰の薄い者になってしまっても、わたしたちと共にいてくださることに諦めはなさいません。

 あの時と変わらず今日(きょう)も、復活の主は宣教する弟子のそばにおられ、寄り添い歩んでくださいます。迷いの中にあったり、力を落としていたり、得体(えたい)の知れない悪に取り囲まれ息の根が止められる恐怖の中にあるときは、なおさらです。・・・主は、わたしたちが直面する問題よりはるかに力ある方(かた)です。まして、世に対する福音宣教の中でぶつかる問題には、いっそう力を振るってくださいます。宣教の使命は、結局のところ主のものであり、わたしたちは主に仕える無力な協力者、『取るに足らない僕(しもべ)』にすぎないのです。

 世界中のすべての宣教者、とりわけ、困難を味わっている宣教者の皆さん、キリストにおいてわたしが心を寄せていることを伝えたいです。親愛なる皆さん、復活の主は、必ず皆さんと共におられます。・・・主イエスが受難の前に友に語った言葉を、いつも思い起こしてください。『あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている(ヨハネ16:33)。』

 エマオへの道すがら二人の弟子の話を聞くと、復活されたイエスは、『モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明されました。』すると弟子たちの心は熱く燃え、ついにはこう語り合うまでになりました。『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私達の心は燃えていたではないか。』まさに、イエスは生きたことばであらわれ、心に火をつけ、心を照らし、変えることのできる、ただお一人のかたです。

 ここまでくると、聖ヒエロニムスの主張、『聖書についての無知は、キリストについての無知である』の理解が深まります。『聖書に対してわたしたちの心の目を開く主の存在なしに、聖書の深みを理解することはできません。しかし、その逆も同じように真実です。つまり、聖書なしには、イエスの宣教の出来事、そしてこの世界におけるイエスの教会の宣教の出来事は理解できません。』ですから、キリスト者の生活にとって聖書を学ぶことは大切であり、キリストとその福音を宣(の)べ伝えることにおいてはなおさらのことです。・・・

 ですから、聖書の意味を説明してくださる方、復活された主に、いつも寄り添っていただきましょう。

 

 2.パンが裂かれると、目が『開け、イエスだと分かった』―エウカリスチアにおられるイエスは、宣教活動の頂点であり源泉。

 

3.復活してキリストを語る喜びを胸に、踏み出す足―いつも出向いて行く教会の永遠の若さ。

 『パンを裂いてくださったときに』目が開けてイエスだと分かると、弟子たちは『時を移さず出発して、エルサレムに戻ります。』このように、主と出会った喜びを他の人々と分かち合おうと急ぎ発つのは、次のことを表しています。『福音の喜びは、イエスに出会う人々の心と生活全体を満たします。イエスの差し出す救いを受け入れる者は、悲しみ、内面的なむなしさと孤独から解放されるのです。喜びは常にイエス・キリストと共に生み出され、新たにされます(『福音の喜び』1項)。』すべての人に伝えたいという熱い思いに駆り立てられないならば、復活したイエスと真に出会ったとは言えません。ですから、宣教活動に最も欠かせない源泉は、聖書と聖体に復活したイエスを見、心にキリストの火を宿し、瞳(ひとみ)にキリストの光をたたえる者たちです。

 『踏み出す足』のイメージは、『諸国民への宣教』が変わらず有効であることを、あたためて思い出させてくれます。それは、地の果てまで、すべての人、すべての民族に福音を伝えるようにという、復活して主が教会に与えた使命です。今日(こんにち)、かつてないほどにおびただしいい数の不正義、分裂、戦争で傷ついている人類には、キリストにおける平和と救いと福音が必要です。・・・

 使徒パウロが言うように、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているのです。そこにあるのは、二重の愛です。キリストのわたしたちへの愛が、わたしたちのキリストへの愛を呼び起こし、駆り立て、かきたてるのです。

 この愛こそが、『その一人のかたは、すべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです』と確信し、キリストの福音を宣べ伝える使命を持って成員がこぞって出向いて行く、いつも若々しい教会をつくるのです。・・・

 急務である教会の宣教活動には、当然ながら、あらゆるレベルで、すべての成員に、これまで以上に緊密な宣教協力が求められています。これは、教会が『交わり、参加、宣教』をキーワードに進めているシノドスの歩みの欠かせない目標です。・・・つまり、エマオの弟子たちのように、復活の主に耳を傾けつつ、旅に身を置くことです。いつも私たちの許に来られ、聖書の意味を説き、わたしたちのためにパンを裂いてくださる主のお陰で、わたしたちは、聖霊の力をもって、世における主の使命を果たしていけるのです。」

 以上、教皇メッセージのさわりの箇所を紹介いたしました。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st231022.html