年間第28主日・A年(23.10.15)

「招かれる人は多いが 選ばれる人は少ない」

死を永久に滅ぼして下さる(イザヤ25:8参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、恐らく紀元前6世紀半ば、無名(むめい)の預言者によって語られたバビロン捕囚からの解放の預言と言えましょう。

 ですから、万軍の主によって開かれる祝宴のイメージで、次のような希望に満ちた預言が宣言されています。

「万軍の主はこの山で祝宴(しゅくえん)を開き

 すべての民に良い肉と古い酒を供(きょう)される。

 それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。

 主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と

 すべての国を覆っていた布を滅ぼし

 死を永久に滅ぼしてくださる。

 まず、冒頭で言われている「万軍の主」ですが、旧約聖書においては、全能と尊敬を表す神の呼び名にほかなりません。

 また、天使、日、月、星など天の万象(ばんしょう)も神の支配下にあることから、これら天の軍勢(ぐんぜい)も神の支配下にあることにより、「万軍の主」と呼ばれるようになったといえましょう。

 さらに、この段落で繰り返されている「この山」ですが、まず、神殿のあるエルサレムのシオンの山を指しますが、特定の場所を超えた終末的に神との出会いの場のイメージがあります。

 また、「古い酒」ですが、よくねかせた強いぶどう酒のことです。

 さらに、「顔を包んでいた布」とは、喪(も)に服している様子(ようす)を表していますが、「すべての国を覆っていた布を滅ぼし」となっていますので、主の栄光を直接見て、その栄光に照らされる、まさに終末的な救いの完成のイメージと言えましょう。

 次の、「死を永久に滅ぼしてくださる」とは、死が擬人化され、その獲物を呑み込むと考えられていたので、ここでは、逆に死そのものが呑み込まれるとなり、「死を永久に滅ぼしてくださる」という意味になります。

 そして、次の段落では神の救いが強調されます。

「わたしたちは待ち望んでいた。

 この方がわたしたちを救ってくださる。

 この方こそわたしたちが待ち望んでいた主(しゅ)

 その救いを祝って喜び躍ろう。

 主の御手(みて)はこの山の上にとどまる。」と。

 

神はわたしを生き返らせ(詩編23:3参照)

  次に、先ほど歌った答唱詩編ですが、詩編23篇の抜粋であります。

 その2節と3節で、

「神はわたしを緑の牧場(まきば)に伏させ、

 いこいの水辺に伴われる。

 神はわたしを生き返らせ、

 いつくしみによって正しい道に導かれる。」と、歌いました。

 ちなみに、この答唱句は「主はわれらの牧者、わたしは乏しいことはない」であり、今日の第一朗読で預言されている神の救いの完成への信頼をこめた歌と言えましょう。

 実は、イザヤ書にも、次のような羊飼いにまつわる預言があります。

「主は羊飼いとして群れを養い、

 み腕(うで)をもって集め

 小羊をふところに抱き、

 その母を導いて行かれる(同上40:11)。」と。

 そして、3節の「神はわたしを生き返らせ」ですが、牧者である神は、「いこいの水辺に伴われ、わたしを生き返らせる」というのです。

 最後の句の「わたしを生き返らせる」は、「魂を生き返らせてくださる」とも訳すことができ、「生き返らせる」は、直訳では「わたしの魂を立ち帰らせる」となり、主によっていこいの水辺に伴われることは、生き返ること、いのちのよみがえりであり、復活体験と言えましょう。

 

見かけた人は善人も悪人の皆集めて来たので 婚宴は客でいっぱいになった(マタイ22:10参照)

 最後に今日の福音ですが、「婚宴」のたとえによって、救いに招かれた者のあるべき姿が語られています。

 まず、「王は家来を送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。」というのです。

「そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。」のですが、彼らはそれも無視して、仕事に出掛けたのです。

 また、それだけでなく、「他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。」のです。とにかく、王の振る舞いが丁寧(ていねい)であるために、それを無視する人々の無礼な態度が目立ちます。

「そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。」というのです。

 このたとえに登場する「人々」とは、祭司長や長老を指しているといえます。

 つまり、神が下さる救いの価値を見出さない彼らは、結果的に救いの優先権(ゆうせんけん)をはく奪(だつ)されてしまうのです。

「そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々はふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」と言うのです。

 ここで、花婿(はなむこ)である王子の登場を今か今かと待ち構えている人々の姿は、死んで復活させられたイエスが再び来られるのを待つ教会の姿を示していると言えましょう。

 では、具体的にどのようにして栄光に包まれて天使たちを従えて再び来られる主イエスをお迎えしたらよいのか、マタイは荘厳に次のように教えてくれます。

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊(やぎ)を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊(やぎ)を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意された国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気になられ、牢におられるのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25:31-40)。』」と。


 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
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