年間第27主日(A年・23.10.8)

「家を建てる者の捨てた石 これが隅の親石となった」

ぶどう畑の愛の歌(イザヤ5:1-7参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、紀元前8世紀にユダ王国で活躍した第一イザヤ預言者のイスラエルの神の救いのドラマを歌った「ぶどう園の歌」にほかなりません。

 それは、次のような大胆な愛のことばで始まります。

「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。

  わたしの愛する者は、肥沃(ひよく)な丘にぶどう畑を持っていた。

 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。

 その真ん中に見張りの塔を立て、酒(さか)ぶねを掘り

 良いぶどうが実るのを待った。

 しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」と。

 ここまでの語り手は、第一イザヤ自身ですが、また、「わたしの愛する者」とは、神を指していますが、次の3節からは、ぶどう園の持ち主が語り手となります。

「さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ

  わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。

  わたしがぶどう畑のためになすべきことで

  何か、しなかったことがあるというのか。

  わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに

  なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。」

 とにかく、「愛する者」は、ぶどう畑の手入れに努め、ただひたすら「良いぶどうが実るのを待った。」というのです。

 ですから、5節からは、具体的な裁きが、次のように語られていきます。

「囲いを取り払い、焼かれるにまかせ

 石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ

 わたしはこれを見捨てる。

 枝は刈り込まれず、耕されることもなく

 茨(いばら)や、おどろが生い茂るであろう。」と。

 次に、「雨を降らせるな、とわたしは、雲に命じる。」と、宣言するに及んで、この「わたし」が、雲に命じることのできる方であることが明らかにされます。

 とにかく、最後に次のような説明によってこの歌の意味がイスラエルの人々にも理解されたのではないでしょうか。

「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑

 主が楽しんで植えられたのはユダの人々(ひとびと)

 主は裁きを待っておられたのに、見よ、流血(りゅうけつ)

 正義を待っておられたのに、見よ、叫喚(きょうかん)。」

 

神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる(マタイ21:43参照)

  次に、今日の福音ですが、第一イザヤが歌った「ぶどう畑の愛の歌」から影響を受けたと考えられるマタイが語る「ぶどう園と農夫のたとえ」にほかなりません。

 とにかく、このたとえを語られたイエスは、裏切り続ける「農夫」の姿を通して、神への反抗を重ねる宗教指導者を、非難し、同時に彼らが軽蔑している徴税人や娼婦のもとにご自分が遣わされている理由を明らかになさいます。

 けれどもこのたとえが教会の中で伝承されて行くうちに、イエスの時代とは異なる社会状況に生きる人々への励ましとして読み直されたと考えられます。

 ですから、34節の「収穫の時が近づいたとき」とは、神がイエスによって実現なさろうとする救いを表しているといえましょう。

 とにかく、期待を裏切り続ける「農夫たち」は、救いの実現を望む神に反抗し続けているのです。また、イエスの死と復活を、目(ま)の当たりにし、それを信じた人々が、これを読むと、このたとえで語られている「息子」によってイエスを連想するはずです。この息子は、ぶどう園の外にほうり出され殺され、イエスはエルサレム城外(じょうがい)のゴルゴダで十字架に架けられました。

 とにかく、初代教会は、このようにたとえを読み解くことによって、異邦人宣教が、まさに神の救いの計画であると確信できたのではないでしょうか。

 

 神の平和があなたがたの心と考えとを、キリスト・イエスによって守る(フィリピ4:7参照)

  最後に今日の第二朗読ですが、パウロが、第二宣教旅行の際に設立したヨーロッパにおける最初の教会が、このフィリピの教会でした。しかも、この手紙をしたためたのは、パウロ自身が、エフェソで福音を宣教したため投獄されていた時と考えられます。

 実は、フィリピの教会自体も、反対者たちに脅かされるという試練に立たされていたということです。ですから、パウロは、この手紙の初めの箇所で次のような励ましをしたためています。

「ただひたすら、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。わたしが出かけて行ってあなたがたに会うにしても、離れたままでいるにしても、あなたがたが一つの霊に支えられてしっかりと立ち、福音に基づく信仰のために心を一つにし、力を合わせて闘い、どんな場合にも敵対する者たちに脅かされ(おびや)はしないということを聞きたいものです(同上1:27-18a)。」と。

 ですから、今日の箇所でも次のような切なる勧告をしたためています。

「どんなことでも、思い煩うのをやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知(じんち)を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」と。

 この最後に言われている「キリストによって守るでしょう。」とは、具体的には「神の平和」を、この地上に実現させるのは、「キリストの平和」に他ならないことは、パウロが、エフェソの教会に宛てた手紙で次のように強調しています。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造りあげて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました(同上2:14-16)。」 

 わたしたちも、このミサをささげる度ごとに、「交わりの儀」で司祭と共に「主の祈り」を、信頼を込めて祈り、続いて、司祭は次のように続けます。

「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、世界に平和をお与えください。」と。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】 https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st231008.html